
メイソン アルマーニを着た悪魔 8巻
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Zainab Sambo
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第32章
ローレン
メイソンがスピーチをした。
素晴らしかった。
人々は拍手し、彼を賞賛した。
私はローズマリーと残されてから、彼と1時間話していなかった。ローズマリーは私を置いてどこかへ行ってしまった。これほど周りの雰囲気に敏感になってしまっていると感じたことはなかった。
そして、あの女性が軽口を叩いて以来、私は心を落ち着かせようとしたが、出来なかった。
今はただやり過ごそうとしている。私は会場を歩き回り、メイソンを探したが見つからなかった。
私はその夜の3杯目のグラスを手に取りながら、部屋の中を移動し、その間に彼の姿を見つけられたらと思った。
目の端に、馴染みの顔がこちらに向かってくるのが見えた。
メイソンの弁護士、マックス・ウィンワードはタキシード姿が決まっていて、明るく元気そうだった。彼の明るさは本当に伝わりやすかった。私の前で立ち止まったとき、私は思わず微笑んでしまった。
やっと知り合いに会えた。味方と呼べる人に。
「ローレン。」と彼は挨拶し、私の隣に座った。「楽しんでますか?」彼の輝くような笑顔は、私が実は楽しんでおらず場違いだと感じていることを理解し、そして私を助け出そうとしてくれていることを十分に伝えてくれた。
「私は今3杯目よ、どう思う?」私は目の前の男を見つめながら、こう言った。彼の低く喉を鳴らす笑い声に私は惑わされなかった。
「面白い? そう思ってもらえるなら何より。」
彼が来ても、私はタキシードに身を包んだ黒髪で灰色の目をした男の姿を追っていた。
「メイソンは今、プライベートミーティングの最中です。」
「ああ...そう。」 自分の表情や動きをコントロールできない自分に苛立ち、恥ずかしくなった。
「別に彼を探していたわけじゃないの。」 嘘をつきながら、私の腹の中がよじれた。なぜなら、探していたのが誰なのかなんて明白で、そもそもこの会場に私の知り合いは2人しかいなかったからだ。
そのうちの1人が私の前に立っているわけで。
彼は笑いをこらえ、私は恥ずかしさのあまり、穴があったら入りたいとさえと思った。
しかし、マックスは紳士らしく、私の戯言には食いついてこなかった。
そんな態度にますます彼を気に入った。
彼はしばらく待っていたが私がそれ以上何も言わず、ただ恥ずかしそうに首を振ると、彼は沈黙を破った。「いいパーティーですね。」
私の声は、うまく丸め込もうと作り笑いしていた。「私の好みのパーティーではないわね。服装も、音楽も......特に音楽は最悪で、誰だって眠くなるわよ。このヒールにも苦戦してる。」
「どんなパーティーが好きなんですか?」
「いい感じの。行ったことないでしょ?うるさくてアグレッシブな。スウェットパンツで来ても、誰も気にしないようなパーティー。もし私がこのパーティーにスウェットパンツで来たらどうなるか、想像できる?」
「ここにいる女性たちはみんな大げさに卒倒して、スウェットパンツ姿の私は『スノッブ・マガジン』の表紙を飾るでしょうね。」
残念そうな笑みが彼の顔を横切った。「スウェットパンツで来てはいけないというルールはないですよ。」
「私が言ったこと聞いてた? 女性たちが気絶して、心臓発作を起こしたら私は刑務所行きよ......」
彼が眉をひそめたのを見て、私はやめた。「そんなに驚かないで。お金持ちの女性がどれだけ服装にこだわるか知らないでしょ。」
「宗教みたいなものよ、彼女たちの中には家にお気に入りのデザイナーを祀っている人もいると思うわ。」
警戒した表情を浮かべたマックスは懸念を隠さず、そっと尋ねた。「ローレン、酔っ払ってませんか?」
私は考える前に何度もまばたきをしたが、唇に小さな笑みが浮かんだ。
「グラス3杯だけよ、マックス。私はお酒強い方だから。」もし私が本当に酔っていたら、彼には分かるだろう。
酔っぱらった私はこんなもんじゃない。
酔っぱらった私を見たら誰もが尻尾を巻いて逃げるだろう。
彼は私を見てニヤリと笑った。「まあ今夜はうまくやってる方だと思いますよ。」
私は首をかしげ、ニヤリと笑い返した。「ええ、まあ、メイソンに一晩中うだうだ考えさせているわけにはいかないし、彼がうだうだ考えるのを好きなのは知ってるでしょ。」
「ありがたいことに、最近は大した話はないんだけど、やっぱり時々まだにらみつけたり、眉をひそめたりするの。これをなくすのは難しそうよ。」
マックスは笑った。「ローレン、実を言うと私はあなた方が1週間も一緒にいられないだろうなと思ってました。」
「私もよ! 寝ている間に殺されるんじゃないかと思って、何度片目を開けて寝たことか...。」
彼は笑いながら目をきらつかせ、こうからかった。
「それが今はどうでしょう。お似合いの2人ですよ。」
「勘弁して、怒るわよ。」私は半泣き、半笑いしながら彼の言ったこととその意味について愕然としていた。
お似合いの2人?
でも、彼が口元をほころばせた不揃いな笑みを浮かべ、温かく優しい目で見つめてきたとき、なんだか自分がさらけ出されたような気がした。
まるで彼には私が見えていない何かが見えるような、そして彼はそれを見透かしているような。
「質問してもいいですか?」
その言葉に私は驚いた。彼の顔から笑顔が消えたからではなく、彼がとても真剣そうだったからだ。その質問を聞くのが怖かったし、答えるのも怖かった。
しかし、体中のエネルギーが全て消えてしまったかのように、私は弱々しくうなずいてしまった。
「彼を諦められますか?」 そんな質問、拒否しようとしたがマックスは手を上げて黙らせた。
「1年経ったら、彼から離れられると思います?」
急に胸がドキドキし、その音が耳元で轟いた。
「わ...私には選択の余地はないと思う。私たちは契約を交わして、私はそれに署名した。あなた、そこにいたじゃない、マックス。」私はほぼ上の空で返した。
マックスの言葉は私を大いに怖がらせた。なぜ彼は私にそんな不安にさせるようなことを尋ねようと考えたのだろう。
私を怖がらせることが目的ではなかったかもしれないが、私は芯から怖気づいてしまった。
私は少し前から将来のことを考えるのをやめた。もしものことを考えるのもやめた。そしてメイソンとの将来は、決して掘り下げたくない危険な考えだった。
マックスは私の答えに満足していなかった。そして私は顔をしかめたり、部屋から逃げ出したいのをなんとか堪えていた。彼は不思議そうに私を見つめ、何を考えているのか理解しようとしているようだった。
「その時が来たら、私は契約通り去るつもりよ。」
「それは、本心ですか?」と彼は大声で聞いてきた。
私は彼をまっすぐ見て答えた。
「この契約を私は遵守するつもりで、あなたにもそう理解しておいてほしいの。メイソンと私は、いわばただの友達で、いずれは別々の道を歩むことになる。それは変えられないの。」
それは変えられない。
彼はまた長い間私を見て、それから微笑んだ。「未来なんて分からないことだらけですよ、ローレン。」
私は歯を食いしばったが、笑顔をしっかりと保った。
「その通りね。」 人ごみの中にいるメイソンに目が留まったけど、すぐに目をそむけた。彼が視界に戻ってきたのが嬉しかったと同時に、私のところにすぐ来ないのが腹立たしかった。
寄せては打ち返す怒りの波が私の中で高まり、腹から胸へ、そして最後には目へと伝わり、世界が赤く染まり始めた。
最も腹立たしかったのは、自分が放っておかれていることだった。
会場を見渡すたびに、誰しもがパートナーの腕に抱かれているのを見かけたが、自分の腕はずっと空っぽだった。
でも、なぜそんなこと気にしなきゃなの? メイソンが今夜、私の側におらず大して気にかけてくれていないというだけで、なぜ傷つく必要があるのだろう?
彼を無視すればいい。
目をそらすべきだ。
しかし、彼はそう遠くにはおらず、2人の男性と1人の女性と楽しそうに話していた。
私の目は磁石のように彼に引き寄せられ、自分が怒っていることも忘れて、笑顔を隠しながら見つめ続けた。もし彼が近づいてきたら話しかけるだろう。
知らない人だらけの部屋に放り込まれていることも、放置されていることも忘れて。この独りよがりで、無礼で、傲慢な男を除いて、他のことはすべて忘れさせて......
深呼吸して落ち着きなさい、ローレン。
そして、彼は明るく笑っていた。まるで花崗岩から削り出したような掘りの深い顔だった。私の息は止まり、心臓がドキドキした。不安が頭をもたげた。
「彼のところに行ってきなさい。」
この人は...
私は、隣に立っていることをすっかり忘れていたマックスを暗い目で睨んだ。私がメイソンを無視したことなど気にせず、むしろ宝くじにでも当たったかのような嬉しそうな顔をしていた。
彼が浮かべているドヤ顔を、私がひっぱたくことさえできれば。
「彼のところに行きたいんでしょう?」と彼は私に迫った。「批判はしませんよ、ローレン。彼はあなたの夫なんだから。」
このドヤ顔......
私はイライラが顔に出るのを抑えられなかった。
「あなたっていつもこんなに人をイライラさせるの? まるであの人みたいな言い草よ。」
「誰が誰みたいだって?」後ろからゆっくりと声がした。私は振り返って、聞こえないよう息をついた。そこにいたのは、相変わらず、いや、以前にも増して目を惹く彼だった。
頭を少し後ろに倒し、ユーモアのかけらもない目で私を見つめていた。彼は視線を移し、今度はマックスを見た。
「どんな話をしてたんだ?」
彼がマックスに自分の権力をかざそうとしている。簡単に気づかれないほど微妙なやり方で。
それが私に通用しないことを分かっているから、自分の欲しい答えを私じゃなく弁護士に求めることにしたんだろう。
恥ずかしさと気まずさから逃れるために、私はすぐに割って入った。「関係ないわ、ただの退屈な話よ。」
彼は半開きの目で私を見つめ、下唇を舐めて口に含むと歯で噛んだ。なにか考えている。
私は全身を緊張させ、マックスに話させないようにして、結局何かあることがバレバレになるだけだった。
彼の目はやわらかく、暗く、頭を少し傾けて私を見ていた。私は、この瞬間に彼が私の心を読めていないことを神に願った。
彼の気をそらすために、あるいは自分自身の気をそらすために、私は声を荒げた。
「あら、キャンベルさん。大変光栄です。わざわざお時間を割いていただき、ありがとうございます。」
「会場中を回って色んな方々とお話しされていましたので、私たちに割くお時間は無いのではと思っておりました。本当に光栄ですわ。」
我ながらなんて器の小さいことをと思ったけど、気にしなかった。
彼の今夜の行動に腹を立てていることを分かってほしかった。
マックスは笑いを隠そうと咳払いをした。
メイソンは微かにうなずき、私の顔をゆっくりと見ながら私の言葉を聞いていた。
何かを考えていて、たぶん何を言おうか、どれだけ私に伝えたいかを考えていたのだろう。
「終わったか?」
その言葉は短く、鋭く、怒りがあった。彼が顎を前後に揺らす様子や、イライラしている様子からわかった。そのエネルギーを私にぶつけてこないでと願った。
私はまだイライラしながらハッと息を吐き、彼から目をそらした。
しかし彼の次の言葉に私は驚いて幻覚ではないか、本当に彼の口から出てきたのだろうかと、首をぐるりと回して彼を見つめた。
そして、答えない私に彼はもう一度繰り返した。
「なあ、踊らないか?」
それを聞いたのが私だけでないことを確認するため、ちらっとマックスを見た。マックスが眉をひそめたのを見て、私は軽くうなずきながら「もちろん」と息を吐いた。
それから彼は微笑んだ。ほんの少し口角を上げただけだったが、私をキュンとさせるには十分だった。
彼は私の腰に手を添えて、私をダンスフロアに導いた。私の足がどうやって彼について行ったのかはわからない。
他にも何組かのカップルが体を密着させて踊っていたし、お互いにささやき合ったり微笑み合ったりして楽しんでいるカップルもいた。
踊り方を知らないとか、経験がないとか言うつもりはなかった。
ただ、あまり得意ではなかったし、何年も踊っていないので、おそらくステップを忘れてしまっているかも。
フロアの端の空いている場所に着くと、メイソンは優雅に私を腕に抱き、両手を私の腰に回して、しっかりと、しかし優しく回した。
私は自然と彼の肩に手を回した。私たちの体は複雑なパズルの2つのピースのようにぴったりはまった。
彼が触れるたびに体温が急上昇し、体中が動揺するのを感じた。
彼が音楽に合わせて上手に動けることに驚きはなかった。メイソン・キャンベルが得意でないことは何もないのだ。
そして、すぐそばにいる彼とまるで秘密の恋人同士のように踊っていることで、彼の手から私を隔てているのは薄いシルクの布1枚だけだということを、否が応でも意識せざるを得なかった。
「今すぐ殺したいくらいよ」さっきまで彼に腹を立てていたことを思い出しながら呟いたが、本当は大して腹を立てていなかったんだと感じ驚いた。
そして彼が私の目を覗き込んだ瞬間に完全に消え去った。
「そうなの?」
まともなリアクションが返ってこないことに、私は腹が立った。でもメイソンはそういう人だった。
簡単に怒るくせに、平気な顔をしている。そしてどちらがよりイライラさせられたか、私にもわからない。
「あなたの死体を運んで、絶対に見つからないよう海に捨てにいかないと。」
彼は私を軽々と振り回し、体を揺らしながら私に押しつけた。
「それは大変そうだな」と彼は言ったが、感情を表に出さず、不意に無邪気な笑顔を見せた。
がっかりだったけど―いや、がっかりという言葉は適切じゃないけど―、彼が私をイラつかせるように私も彼をイラつかせようとしたけど、結局うまくいかなかった。
彼が私に勝たせないからだ。
「だけど、不可能じゃないわ。」
だから、逆に遊び心を持つことにした。
そして、満足感というのは形容しがたいものだけれど、人の目や外見に輝きをもたらし分かりやすくなる。少なくとも、私はそう信じていた。それをメイソンの中に見ていたから。
彼は面白そうに微笑んだ。「1人でやるの? 君の体重は? 無理だろう。私の死体を運べると思う? 誰の車を使うんだ? 私のか?」
「いや、それは第一容疑者にしてくれと言っているようなものじゃない。」
彼の冷静な表情は、まるで普通に楽しい会話をしているかのようだった。
「誰かを雇うのかもしれないが、君の銀行口座から判断して、支払い能力はないだろう。仕事が終わったら払うという契約ならいけるんじゃないか。」
「つまり君は自分が殺人者になれないことを証明してるようなものだ。」彼の目が私の目をじっと見つめた。その闇の向こうに私は飲み込まれそうになった。
「私になにか不満があるのか?」彼はようやく気づいた。
「不満?」私は鼻を鳴らして繰り返した。
「というより、怒っているの。私を知らない人たちの中で一人きりにさせて!」
彼は私の背中に両手を広げ、さらに私を引き寄せ、その指先の圧が私の心を動揺させた。
「謝るよ。」
「次は手錠を忘れないようにしないとね。私が行くところどこにでも君がついて来れるように。なかなかいい解決策だと思わないか。」彼は私の頭に温かいささやき声で問いかけた。
「それを何と呼ぶか知ってる?」私は、他人を犠牲にしてごちそうを食べる人のような、ドヤ顔を浮かべた。「この世の地獄。」
「そりゃいいね。」
私はダンスに集中していなかったけど、メイソンのペースに合わせてついていけていたことに驚いた。
彼ほど優雅でも素早くも動けていなかったが、彼の足を踏んだりせず、ひどいと言われなくて済む程度には上手だった。
「それで、私をほっといてた理由を話すつもりはないの? そう、じゃあ結構よ。」
「おい、気をつけろ。」と彼は答えた。そして突然、彼の顔が真剣になり、不愉快じみてきた。
「私たちは愛し合っているはずなのに、君は私に喧嘩を仕掛けている。みんな見てるぞ。」
「人の目なんて気にしないって言ってなかった?」
「気にしない。自分がどう思うかは気にする。」
私は鼻音で返した。
しばらくの沈黙の後、彼はこう付け加えた。「だがマックスと仲良くなったようじゃないか。2人とも居心地よさそうだった。邪魔をして悪かった。」
「キャンベルさん、その声には嫉妬が混ざってますか? 大変なスキャンダルね」と私は首を振って舌打ちをした。
彼はニヤリと笑った。「嫉妬か。」と彼は言い、その声にはためらいも揺らぎもなかった。口調よりも侮辱的な笑いが続いた。「その言葉がよく好奇心と混同されることが多いこと知ってるかい?」
揺れながら、私の手は彼の肩をなぞった。「混同などしていないわ。私があなたの弁護士と親しくなったことに、あなたが嫉妬してるのは明らかよ。」
メイソンは不満そうな声を上げたが、それに私はニヤリとし、親指で彼の頬をさすった。
「少し青ざめてるじゃない。」 私が笑うと、彼はその言葉に少し睨みつけ、その雰囲気が私たちの会話を危なげに感じるほど和らげた。
彼の顔には苛立ちが表れていた。「私はあなたが怒っているときのほうが好きよ。」
私の口の端に、面白がる笑みが浮かんだ。
「ああ心配しないで、あなたはまだ私のお気に入りの人だから。」私は彼をからかって楽しんでいたけど、彼もまた私と同じように、それを面白いと感じていた。
「君が私のことを陰でどう言っているか、私が知らないと思うな。私はただ無視することにしているだけだ。」彼の声はざらざらとしたささやき声で、私の肌に馴染み、血管の間に食い込んだ。
「わざわざ私に言ってくるなら、無視してないじゃない。」
「生意気言うな。」
「そんなこと夢にも思わないわよ、キャンベルさん。」私は厚かましい笑みを浮かべて彼に断言した。
そして音楽が終わり、彼が私を解放すると同時に彼の肩から私の手が離れた。
私たちは互いに見つめ合い、私が彼と反対の方を振り向こうとした次の瞬間、颯爽と部屋を横切ってきた女性が突然私にぶつかり、飲み物をこぼされた。
私は呆気に取られて、ドレスの上にどんどん大きくなっていくシミを見つめた。
私が犯人を見上げると、彼女は申し訳なさそうな顔をしていた。わざとらしい顔だ。
「あらなんてこと、ごめんなさいね」と彼女はパニックになった。
けれどここでも彼女が申し訳ないと思っている様子はまったくなかった。しかし、なぜ彼女が私に飲み物をこぼしたのかは、私にはわからない。
メイソンはその女性を無視し、私の腕をそっとつかんで自分のほうを向かせた。彼の顔は自分の本当に思っていることを隠していた。
「大丈夫?」
私はうなずき、まだドレスを見ていた。
「トイレに行って、きれいにしてくるわ。」ドレスのシミは取れないだろうし、人が私のことをささやくのを聞きながら、これ以上留まることはできない。
「本当にごめんなさい。行き先を見てなかったの。」
「いいからどこかへ行ってくれ。」メイソンの女性に対する鋭い言葉は、とても意地悪で、とても冷たく、彼は彼女を見ることなくそう言った。
女性は彼の声の強さに驚いてたじろぎ、目を見開き、それ以上一瞥もせずにその場を飛び出した。
「クソッ。」
「おい、言葉に気をつけろ。」私の下品な言い方に、彼は噛みついた。
「メイソン。」
「そのほうがいい。」。彼がにやりと笑ったので、私はあきれて彼にダンスフロアから一緒に立ち去るよう誘導させた。
彼は話しかけようとする人たちをかわし、私の背中に手を置いたまま、大勢の人の間を抜けてガラス戸の向こうへ私を案内し、廊下に出た。
「待って。」
私は歩みを止め、ちょっと振り返った。彼が私を見ているのを見ながら。
「ここからは1人でいい。トイレには一緒に行けないから。」
「ああ、そんなつもりじゃなかったんだ。」
私はうなずき、彼の手から自分の手を引き離そうとしたが、彼はそれを強く握りしめた。私は首をかしげて顔をしかめた。
彼は私の特徴を記憶するかのように私の顔を見つめていた。まるで今夜、私の夢を見るつもりかのように。
たった一言の言葉もない視線が、どうしてこんなにも私に強い影響を与えてくるのだろう。私の内面を揺さぶり、彼もそんな私の様子に気づいた。
彼は私の胸の高まりに気づいたのだ。
さらに、私の唇がわずかに開いた瞬間にも気づいた。私が彼に一歩接近したことを簡単に気づかれたのと同じように、私たち2人はその瞬間に動きが止まった感じだった。
どうにか彼は私から手を放し、私は勇気を出して目をそらし、前に向かおうとしたとき、何かが私を引き留めた。
それは温かくて柔らかく、吸血ヒルのように静かに私の腕にからみついた。
私は首を回し、メイソンの手が再び私の手首を握っているのを見下ろした。
私は彼に身を任せた。
彼に私を抱きしめさせた。彼に私の顔を記憶させ、それに浸らせた。しかし、私自身も彼に夢中になってしまっていた。
自分の足で立ってられず、床に滑りこみたくて仕方がなかった。彼が私に触れている間はダメだ。
彼が私を一番大切な宝物のように、貪りたさそうに見ている間は、ダメだ。
「私にどうしてほしいの?」私は低い声で囁き、まるでゆっくりとまどろみに落ちていくかのように目を数秒ごとにパチパチさせた。
その言葉は、これまで口にしたことのないような危険な言葉だった。
私の唇と舌はその言葉を形づくり、命を与えた。危険で自らに火をつけて炎上する類の命だ。
私の肌は紅潮し、鳥肌が立った。
その問いで彼の顔はぎゅっと引き締まった。彼の怒りは、引き締まった顎と歯ぎしりに現れた。しかし、彼は何も言わなかった。
彼はただ私を置いて再び独りぼっちにした。そして彼がいないことがもっと寒々しく感じた。
間もなく、ふらつく足取りでトイレを見つけ、ドアを押し開けて中に入った。
自分のドレスに目を落としていると、カツカツというヒールの音が聞こえた。1人ではなかった。私はゆっくり顔を上げた。
その瞬間、私は凍りついた。
これは本当に自分の身に起こっていることではない、これは夢なのだ、そうでなければ私は気が狂ってしまったのだ、と闇雲に思った。
張りつめたような、緊迫した静寂が訪れたが、その静寂を破ったのは、もう二度と聞くことはないと思っていた声だった。
「こんにちは、ローレン。」
その聞き覚えのある柔らかな声の主は否定しようがなかった。衝撃波が背筋を駆け巡り、全身に衝撃を与え、私は頭の先からつま先まで硬直して相手を見つめていた。
「ママ。」止める間もなく、その言葉は私の唇からこぼれ落ちた。









































