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Trapping Quincy 運命に逆らうクインシーと王子の出会い 1巻

QとJ

クインシー・セント・マーティン

今朝、目を開けると確かに違う空気が流れていた。
何がどう違うのかは分からないけど、でもそれを感じる。もう朝の9時だというのに、家中が静まり返っている。昨日の出来事の後、トイレの掃除を終わらせようともしなかったし、今日やるはずだった洗濯もしなかった。
私が生活しているこの場所——『物置部屋』の代金は、昨日あいつらが私から奪った生活費で十分賄えているはずだ。
そう、私はしょっぱくてケチなんだ。
意外なことに、今朝は誰も私の部屋のドアを叩いて、いつものように雑用をさせようとしてこない。廊下の向こうにある浴室で歯を磨きとシャワーを浴びようと部屋を出る私に、物憂げな空気がつきまとう。
用を済ませて、すぐに部屋に戻り、鍵をかけた。
「退屈なの」と私はオリバーに語りかける。
今は正午で、とてもお腹が空いている。次に何をしようかと思い巡らすけど、お腹が空いていると私は何も考えられない。
「どうして今日はこんなに静かなの?」とオリバーに尋ねる。
突然ドアをノックされ、私は飛び上がった。私はゆっくりとドアに近づき、ドアを開けるべきかどうか考えた。ベータの手がまだ私の喉に触れているのを感じる。昨夜は悪夢にうなされた。
「僕だよ、開けて!」閉ざされたドア越しに静かな声がする。ジョーデンだ!
私は素早く鍵を開け、ドアを少しだけ開いた。
ジョーデンのチョコレート色の瞳がドアの隙間から私を見下ろしている。「20分後にナナの家のの裏庭で会おう」そう彼は言うと、そのまま静かに立ち去った。
私はカチャリとドアを閉め、パジャマからジーンズに履き替える。
グレーのTシャツに白いコンバースを履き、ストレートの黒髪に櫛を通す。ベッドの向かいの壁に小さな古い鏡がかかっている。その鏡はナナの古い家から持ってきて、自分で掛けたものだ。
私は見栄っ張りじゃないけど、女の子には鏡が必要。
私の緑色の瞳が鏡の中から私を見つめている。人はいつも、私の緑色の瞳はとても珍しく、鮮やかだと言う。きっとこの瞳の色は会ったこともない私の父親から受け継いだものだろうと考えている。私の親戚には緑色の目をした人がいないからだ。
実際どうなのかって言うのは、たぶん一生分からないだろう。少なくとも、昨晩泣いたことでできた目の周りの腫れは消えていた。
私は急いで外に出た。ナナの古い家は『群れの家』から歩いて15分のところにあるからだ。外に出る前にスカーフを手に取り、首に軽く巻いた。
***
「お待たせ、J」
「やあ、Q」
ジョーデンは私のことをQと呼び、私は彼のことをJと呼ぶ。どうしてかって? それはね……。
実は私にもよくわからない。7歳のジョーデンが6歳の私に「僕たちはJとQになるんだ」って言ったとき、私は心からそうしようって思った。
6歳の私には、それが何よりもクールなことだと思えたからだ。
でもそれは、私が彼のサイドキックで、世界の悪と戦うときの小間使い役だと知るまでのことだった。私は誰かのサイドキックじゃない。そのことでよく二人で喧嘩したものだ。
今、私たちは私の中での順番はQとJになっている。ジョーデンは、まだJとQだと思ってるだろう。
私は目の前の庭を見渡す。ここはかつてナナの自慢の庭だった。ジョーデンと私がここで遊んでいる間、ナナは何時間も楽しそうに庭の手入れをしていたものだ。
最後に見てから数ヶ月が経ち、庭は荒れ放題になっていた。コーンフラワー、ペンステモン、ユリ、ブラック・アイド・スーザンに混じって雑草が生い茂っている。
トマト、エンドウ、カボチャ、ビートの間には野草が伸び放題だ。
ジョーデンは私の目から何かを見て取ったのか「たまに水やりには来てたんだけどね。他のことは苦手なんだ。新しい持ち主がちゃんと管理してくれるといいけど……」
「う、うん……」私は答えに詰まった。
今、この場所が他の人のものになっていることが信じられない。新しい所有者はまだ引っ越してきていないけど、ナナがそうであったように、この場所を愛し、大切にしてくれることを心から願う。
私は顔を上げ、いとこに涙ぐんだ笑顔を見せた。
「これ」そう言って、ジョーデンは紙ナプキンに包まれたサンドイッチを私に手渡してくれた。
匂いを嗅いだだけで、口の中が涎で溢れる。ターキー・クラブ・サンドイッチを口に詰めこんだ。なんておいしいんだろう!豚みたいな食べ方をしてるけど、お腹が空いてるんだからしょうがない。それに見ているのはジョーデンだけだし……。
もう何日も食べてない気がする! あれ、待って!昨日の朝、掃除を始める前にキッチンから盗んだバナナを除けば、本当に何日も食べていない。私は彼を見上げ、満面の笑みを浮かべた。彼が返した笑顔は苦しそうだった。
私が食べ終わるのを、彼の黒い目が注意深く私を見ているのがわかった。のみ込むのはまだ痛いけど、空腹の胃も痛い。
突然、彼が近づいてきて、私の首に巻かれていたスカーフをほどき始めた。「ジョーデン……」 抗議の声を上げたけど、彼は私の首を傾げて喉を検査した。
ジョーデンの指が赤くなった私の喉をそっとかすめると、彼が歯を強く噛みしめる音が聞こえた。すぐに彼は私を離し、ジーンズのポケットに手を突っ込む。
後ろを向いて足元の小石を蹴る彼の仕草は、彼が苛立っているのを明らかにしている。何度も何度も小石を蹴る。
「ここから出て行かないとだめだ」とジョーデンは言う。
その言葉に心臓が止まりそうになり、私はしばらくの間、ただ彼を見ていた。広い肩を落とし、うなだれているジョーデンを……。風が彼の髪を揺らしている。彼の黒い髪はずいぶん伸びて、カールが目立つようになってきた。もっと長くなればリングレットになるだろう。
小さい頃、よく彼の髪をからかったものだ。
「聞いてるの、Q? ここから出て行って。すぐに」
彼は振り返って私を見る。彼の目は悲しげだ。「僕は君を守れない、Q。ここから遠くへ行って、二度と戻ってこないで」。
「どうして?」私はジョーデンのことをよく知っている。私になにか隠していることがある。「ジョーデン?」
「何もかもがめちゃくちゃ(ファック・アップ)だ。分かってるだろ? 父さんもクソ(ファック)だ。この群れ全体がクソの塊(フル・ファック)だ」
ジョーデン・セント・マーティンがこんな言葉を使うのを聞いたことがなかった。言葉遣いが悪いのはいつも私とナナで、あまりにもその頻度が高いから私は罰金箱を持っていた。汚い言葉を使うたびに10セント払うっていう決まりだった。だからもう汚い言葉は使わないようにしてる。スッカラカンだから。
ジョーデンは乱れた髪に指を通してから、手で顔を覆った。彼の目は疲れているように見えた。
ジョーデンは私にとっていとこ以上の存在だ。兄って呼んでもいいだろう。ナナと私を訪ねてくれたのは彼だけだった。他の誰も気にしなかった。ナナがみんなに会うために群れの家に行かなければならないことに、私は密かに罪悪感を感じていた。
もし私がそこに住んでいなかったら、自分たちの母であり祖母であるナナのところに訪ねて来てたかもしれない。私は風が葉をなびかせ、長い草の葉を揺らす音に耳を傾ける。
鳥のさえずりがこんなに甘美に聞こえたことはない。私たちはみんなから遠く離れていて、それ自体が自由を感じさせる。この場所が懐かしい。
「前の『ルナ』——ジュディス・マドックスが昨日の夜亡くなったって知ってた?」一時の平穏をもたらせていた沈黙を破って、ジョーデンが尋ねる。
「死んだの?」と私は聞き返した。
だから今朝、奇妙に感じたのかもしれない。前のルナのことはよく知らないし、彼女は何年も寝たきりだった。それでも、なんとなくその知らせに悲しさを感じた。
ジョーデンはうなずいて、「彼女は昨夜死んだんだ」と繰り返した。「Q、面白い話、聞きたい?」
「うん」そう答えながらも、この話の流れで何が面白いのか分からない。
「昨日、みんながオフィスを出た後、老いぼれマドックスが父さんを訪ねてきたんだ」
ジョーダンの言葉に私はうなずいたけど、嫌な予感しかしない。
「親友なんだから、別に変なことじゃない。マドックスがアルファだった数十年間、父さんは彼のベータとして仕えたからね。でもなぜか嫌な予感がしたんだ。君に手を出した父さんにまだ腹を立てていたからかもしれないけどね。なんにせよ、僕は盗み聞きをしようと思って、オフィスの横にある壁が薄い物置に入ったんだ」
「うん、それで?」私は眉をひそめて続きを促した。
「Q、マドックスが父さんに、君があいつの『第二の番い』だって言っているのを聞いたんだ」とジョーデンが言う。
彼の呼吸が荒くなって、胸が激しく上下する。「クソかよ!本当の番いがまだ生きているのに、なんで『第二の番い』なんて言ってるんだよ? あの野郎! クソ過ぎておかしくなりそうだ。しかも、父さんがそれに同意してたんだ。で……、昨日の午後、君がマドックスの次の番いだって決まって、夜には、マドックスの番いが死んだんだ!」
彼は私の腕をつかみ、強く握った。「僕は誰にも君を触れさせたくないんだ、Q……。もう二度と父さんに手を出させたくない。次にそんなことがあったら、君は本当に殺される。ましてや、あの老いぼれ豚野郎にも触らせるわけにはいかない……」
ジョーデンの声が途切れ、首を横に振る。
「あいつら、ルナに何かしたに違いない。絶対そうだ。腹の底からそう感じる。もしあいつらが彼女を殺したとしたら、君にだって何をするか分からないだろ?」
掴まれていた腕を振りほどいて、今度は私が彼を固く抱き寄せた。彼の胸に頬を寄せると、硬く強ばった身体から、早鐘のように打ち付ける鼓動が聞こえる。
ジョーデンにとって、これはとてもつらいことに違いない。なんで自分がこんなに落ち着いているのか分からない。
すぐにパニックし始めると思うけど、その前に彼を落ち着かせることの方が重要な気がする。
しばらくすると、彼の体が緩み始めるのが分かる。彼が私に腕を回し、私の髪に顔を埋めた。彼の鼓動が正常に戻り始める。
「出て行ってほしくない。でも守ってあげられないから……。君を守れないのが嫌なんだ、Q」
「大丈夫、J。大丈夫」いろんなことが頭を駆け巡りながらも、私はジョーデンに言った。
お金もないのに、どこに行けばいいの?どうやってここから出られるの
以前から、彼らが私がここから出て行くのを許してくれないのは分かっていた。でも、彼らの一人が私を番いだと主張したら、ここから出ることは間違いなく不可能になる。
ジョーデンが十分に落ち着いたことを確認すると彼から離れ、二人で芝生の上に昔よくしたように向かい合って座った。
「僕はQのことが好きだ。ジョエルと同じくらい、いやそれ以上に大好きだ。ナナを失ったばかりなのに、今度は君を失うかもしれない」唾を飲み込む彼の喉仏が揺れるのが見えた。「こんなの最悪だ」
私はただうなずく。どうやって生きていけばいいの? 外は怖い世界だけど、マドックスの相手になって永遠にここに閉じ込められると思うと、もっと怖い。
予定通りウエストバージニア大学には行けない。私がいなくなったことを知った時、彼らが私を探す最初の場所になるから。
彼らが私の匂いを辿れないような、できるだけ遠くへ行かないとだめだ。
仕事を見つけないと……、でも、誰が私を雇ってくれるの? 南部へ行く? それともベガスに行ってショーガールになるとか……?
テキサスに越して、薄汚いバーでウェイトレスをするとか……?
「キャンディって名乗って、路傍(ストリート)で働くとか……?」
キャンディって名前の人たちに悪気はないんだけど、もし路傍(ストリート)で働かなくちゃいけないなら、私はその名前にしたい。
「なんでキャンディーっていう名前で路傍(ストリート)で働かなきゃいけないの?」1分近く変な子でも見るようにジョーデンは私を見つめてから尋ねた。
「食べてかなきゃならないでしょ、バーカ!」
ジョーデンはため息をつく。「身体を売るつもりじゃないよね、Q? そんなの絶対だめだからね。全くQは想像力たくましすぎるよ」彼は首を振りながらそう言う。「心配しなくていいわよ。きっとなんとかなるから」
「ねぇ、J……、私どこに行ったらいいの?行くところがないわ。お金もない。お金があったとしても、予定通り大学に行ったら、見つかってしまうだろうし……」
「いや、大学はもう論外だ。遠くに逃げるしかないよ。誰にもQの匂いを辿られないように、できるだけ遠くへ。これが君の行き先だ」。
彼はポケットから紙切れを取り出して私に手渡した。
それはカリフォルニアの小さな大学からの合格通知だった。私はその手紙をナナの家の古い部屋に隠し置いていた。その大学を受験したのは、私の夢のような願望でしかなかった。遠く離れた場所、誰も私を知らないところへ行くことを夢見ていた。あの頃はまだナナが生きていたし、実際にナナから遠く離れるつもりなんてさらさらなかった。
私は手に取った手紙を見つめる。
「でも、大学には行かないってメールしたし、きっと私の席はもう残ってないよ」
「かもね。でもジョナがいるから大丈夫だよ。ジョナは大学の関係者を知ってて、なんとかしてくれるって」
「ジョナ?」私の口は驚きで半開きになっている。ジョナはジョーデンの兄だ。
彼は6年前、21歳になったときに父親からベータの座を引き継ぐことになっていたが、その前に群れを去った。
彼は父親と、当時まだアルファだったマドックスと大喧嘩をしたと聞いていた。彼が去ったとき、私は12歳だったから、みんなから聞いた話以外のことはよく知らない。
ジョナは荒くれ者(トラブルメーカー)として知られていた。いつも父親に反抗していた。やってはいけないことをし、悪い仲間と連んで、いつも喧嘩ばかりしていた。彼はどうしようもない奴だとみんなに言われ、悪い噂が絶えなかった。誰も彼がどこに行ったのか知らなかった……はずだった。でもジョーデンは知っていた。
「まだジョナと連絡を取ってたんだ」と私は言う。
「うん、ジョナが2年前に連絡してきて、何かあったときのためにって言って連絡先を教えてくれたんだ。今がまさにその時でしょ」とジョーデンが答える。
「群れのみんなは今夜の焼月の集い(バーニング・ムーン)に来てる。みんなが今夜、忙しくしている8時頃に出発の準備をしておいてね。いい?」
今晩、何が起こるかは分かっている。月明かりの下で大集会が開かれるんだ。
遺体は群れの家から800メートルほど離れた森の空き地で焼かれる。それからみんなはオオカミに変身して、月に向かって吠え、その人——この場合はマドックス夫人——に最後の敬意を払って疾走するんだ。
ナナの葬儀の時は私もそこにいた。でも、みんながオオカミになって一斉に走り出したとき、私はただ脇に立っていただけだった。
「これ、ジョナの携帯の番号」ジョーデンが言う。「着いたらすぐに電話して。それから、はい……、軍資金。足りないと思うけど、これでとりあえず当座はしのげると思うから」
私は手渡された番号の書いてある紙切れと、50ドル札を丸めた分厚い札束を見つめた。1,000ドル以上あるに違いない。
「このお金は受け取れないよ、J」
「分かってる。でも僕のお金だから、僕の自由に使う。僕は君に持って行ってほしいんだ」ジョーデンが続ける。「受け取って、Q。遠慮するなって。今はメンツを気にしてる場合じゃないでしょ? お金は必要になるんだから」
私はもう一度手の中のお金を見つめた。彼が正しいのは分かってる。「ありがとう、J」と私は彼に言った。
「ねえ、Q?」
「なぁに?」
「バカにされたり、いじめられたりしたとき、君を守らなくてごめん。僕は……、僕は臆病者だ」彼は私の目を見ることなく、地面を見つめている。こんな告白をするのはつらいに違いない。
「気にしないで、J」私は正直に答えた。誰かが私のために戦ってくれるとは思ってなかった。
「僕に言われても意味ないかもしれないけど……」ジョーデンは言葉を重ねた。「Qはすごいよ。君は決して引き下がらなかった。あんな仕打ちを受けるべきじゃなかったんだ。でも君はとても強かった」と彼は言う。「外の世界に行って、もっといい人生を送ってね、Q。ここでのことは全部忘れて……」
そう、ここにはもう何もない。戻ってくることはないと思う。ただ一人、ジョーデンに会えなくなるのが寂しい。涙が溢れてきたけど、私は顎を上げて微笑んだ。
「いつか返す……、必ずいつか返すよ、J」
そんなことができるかどうかは分からないけど、そう言うべきだと思った。そう言えば、また会えるような気がするから……。
「ナナにそっくりだね、Q」
「本当に?」 私はジョーデンを見上げて微笑む。涙が二滴ほど頬に落ちる。私はすぐにそれを拭った。この上ない賛辞だ! 私のナナは素敵な人だったから……。
彼女の娘が、望まれずに生まれて来た名無しの新生児を玄関先に置いていったのは、私のナナが最愛の番いを亡くしたばかり時だった。
ナナはその赤ん坊を引き取って、その子に彼女の最愛の番いの名前——クインシー・セント・マーティン——を名付けた。そう、私の名前は私のおじいちゃんの名前と同じだ。
最愛の人を亡くすという大きな喪失感を味わった直後だったから、悲しみに打ちひしがれていてもおかしくないのに、彼女は立ち上がって私に名前を付け、家を与えてくれた。
それくらいナナは素晴らしい人だった。
「うん、君は誇り高くて強くて、でも優しくて親切で……、ちょっとかっこいいよ」とジョーデンは言う。
「私もあなたが大好きよ、J」
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