
Trapping Quincy 運命に逆らうクインシーと王子の出会い 1巻
ツルツルの目玉
クインシー・セント・マーティン
ナナが恋しい。ナナの古い家が恋しい。ナナの料理が恋しい。
学校から家に帰ると、玄関のドアを開けたとたんに、ストーブの上で焼かれる料理の匂いや、オーブンでパンが焼かれる匂いがいつもしていた。
『群れの家』に移ってから、かなり痩せた。いつもお腹が空いている。いとこのジョーデンは、私が食べ物のことになると豚になると言っていた。まあ、少なくともここでは、望まなくてもダイエットができる。
ここに来てから、数え切れないほど問題を起こしてきた。
私はいつも優しく振る舞ったり、嫌なことをされても歯向かわずにいることができない。しかも他の子たちは私に構わずにはいられないようだ。
歯向かうとそれがいつもトラブルの原因になる。もちろん、いつもお腹が空いているのは言うまでもない。
今夜の夕食でみんなが食べたであろう、ローストビーフにグレービーソース、マッシュポテトとヨークシャープディングのイメージが頭の中に浮かんでくる。
みんなが夕食をとっているとき、私はその匂いを嗅いだ。口の中で味わうことができるんじゃないかと思うくらいに。
食べ物のことを考えるのを止めるために、枕元からウェストバージニア大学からの合格通知を取り出す。
昨夜、ベッドの中で何時間も寝返りを打ちながら悩んだ末、私はついに決断した。ナナの死に際の願いを叶えるんだ。ウェストバージニア大学に行く。
でも、カリフォルニアからの合格通知は捨てられなかった。
私はそれを安全な場所に隠した。自分しか分からない場所に。今はウエストバージニア大学に集中する時だ。そしてもっと重要なのは、学費をどうするかだ。ナナは、私が小さい頃から教育資金を貯めてくれていた。
私は放課後の夕方や夏休みにフルタイムで働いて、貯金を増やしていた。大した額ではなかったけど、その貯金とこれからもらえる奨学金、それにアルバイトをすれば、なんとかやっていけると思う。
お腹がまた大きく鳴る。ああ、我慢しなきゃ……、空腹なんかに負けない!
自分の胃袋との戦い——これが私の今の人生。空腹との戦闘中に寝付くのは難しい……。
***
今は朝の10時、もう三つのトイレを掃除した。とても達成感がある。
何をグズグズしてるんだって思う人もいるだろう。なんせあと八つのトイレと25の浴室掃除が残っているから。でも、そんなのどうでもいいわ。この『群れの家』には全部で11のトイレと25の浴室があり、私はそこを週に二回掃除することになっている。
ここに越してきた最初の日からの私の仕事だ。あぁ、あと洗濯もする。
ここの人たちは私に料理もやらせようとしてたけど、それが失敗だったのはもう知れ渡ってる。
考えてみれば、私はトイレの掃除も洗濯も苦手だ。
先週は洗濯物全体が紫色になった。ラベンダーのようなきれいな色合いで、個人的には結構きれいじゃなとか思ってた。
それくらいで騒がないで欲しいよね。ラベンダー色のシャツを着て練習に参加する男らしい戦士たち……、私としては結構好みなんだけど……。正直言って、私はここではあんまり役に立たない。
私は最低のメイドだ。もちろん給与なんてもらってない。うん、かなり役に立ってない。
メインフロアの男性用トイレを開けると、私は思わずうめき声を上げて身震いした。ここの男たちは本当に豚だ。どうしてちゃんと狙いを定められないんだろう? 毎日的を射る練習をする機会がないわけでもあるまい!
ううっ。私は男子トイレを掃除するのが嫌いだ。雑用は好きではないが、タダで泊めてもらっている以上、世話になっている分くらいは働かないといけないことくらい理解している。
私の最大の悪夢は、このままずっと無給のメイドとして『群れの家』に縛り付けられることだ。
無給のメイド。奴隷という言葉よりも響きがきれいなので、この言葉を使うことにしている。
「そこにいたんだ」ジョエルが言う。
ドアのそばに立って、膝をついて便器を磨く私を見る彼女の顔には満足げな笑みが浮かんでいる。
「父さんが呼んでるわ」
ああ、『ベータ』——ベータ・セント・マーチンって呼ぶように言われている私の叔父だ。
最後に私が彼のオフィスに呼び出されたのは、ナナの家を売って私をここに、『群れの家』に私を連れてくるという知らせを言い渡されたときだった。
ジョエルが私に向ける憎しみのこもった目が、昨晩の出来事を忘れていないことを告げていた。
同時に彼女の目の中にある嬉しそうな輝きが、私にこの後すぐ起こるだろうことが、彼女を大いに喜ばせるものであることを警告している。
私は今まで使っていたゴム手袋を床に投げ捨て、彼女の前を通り過ぎるとき、中指を立てて見せたい衝動をなんとか抑える。ジョエルが今まで一度もトイレ掃除をしたことがないのは知っている。
高位の人狼、つまり『アルファ』や『ベータ』の娘や息子が、そんな雑務をすることはない。
こうした雑務は下級の『オメガ』か、私のような人間の仕事だ。ベータ・セント・マーティンのオフィスに一歩足を踏み入れると、ジョエルは私の後についてきてドアを閉めた。
「よくやったね、お手柄だよ、プリンセス」とベータは娘に言った。
なるほど、私を見つけた彼女は称賛に値するわけね。たいした成果だわ。
私を見つめるみんなの視線を感じる。え? 今、口に出さなかったわよね?
ベータ・セント・マーチンの番いのマリアが軽蔑したように眉を吊り上げている。彼女は唇の端を不服そうに下げ、私の外見を観察している。確かに私は、ジョエルのようにデザイナーズ・ジーンズを履いてはいないし、高価なトップスも着ていない。でも少なくとも裸ではないわ。ふんっ!
部屋は覚えている通りだった。ちょうどいい広さのオフィスだけど、私的には味気ない。壁はベージュで、家具は主に特大のダークレザー製だ。
壁には絵画も何もなく、家族の写真が数枚と、デスクの後ろに自分たちの群れ——ループ・ノワール・パック——のテリトリーを記した大きな地図があるのみだ。
滑らかなオーク材の机の後ろにあるオフィスチェアにベータが座っている。私の母親とケイトリン・ローズは二人がけのソファーに一緒に腰掛けている。
大きな革張りのソファに座っているマリアのところにジョエルはやって来て、彼女の母親の横に座った。私はジョーデンをちらっと見る。ジョーデンはみんなから少し離れた角の椅子に座っている。みんなから距離を置こうとしているようだ。
私と目が合うや否や、ジョーデンは目を逸らして、黒いブーツの先をしげしげと見つめる。その仕草は、次に私に起こるだろうことが私にとって良くないことだということを知らせていた。
「座れよ、クインシー」とベータ・セント・マーティンが言う。
私はここにいたくなかったけど、唯一空いていたベータの正面の椅子にしぶしぶ座った。彼は目の前にあるファイルにざっと目を通し、いくつかの書類を取り出した。
「母の財産を私たちで分けることになり、私が遺言執行人を務めることになった。母は遺言を残さなかったので、私が財産の分与を相応しい形で行う」
ナナの財産を自分たちで分けるの? ナナは遺言を残していると思ったけど……、私の思い違いか何だろか……。
「クインシー、おまえが見つからなかったから、不動産の売却分を含め、すべての資産を私と妹で分けることを話し合いで決定した」ベータが一方的に話し始めた。
まぁ、そうなるだろうね。どうせほとんどのお金と資産がこの二人に渡るものだと思っていたし……。
「それでだ。母は二つの銀行口座を持っていた。一つは預金額がほとんどない母名義の口座だ」
ベータはこの口座の預金を四人の孫——ジョーデン、ジョエル、ケイトリン・ローズ、そして私——に均等に分配することを決めていた。一人300ドルずつだ。
「もうひとつの口座は、母とクインシーの名義になっている」ベータは続けた。
「クインシー、おまえはまだ未成年で、ここに住まわせてもらっている。何よりもおまえは私たちの保護下にある。だからその金は、ここでの滞在費、食費、その他の費用に充てることにした」
はぁ? なにそれ? 「ちょっと待てよ!そのお金は私の教育費よ!」 私は椅子から立ち上がった。「なにより、ここになんか住みたいと思ってないわ!」
その預金の半分は私が一生懸命働いて貯めたものだ。12歳のときからベビーシッターをし、冬は雪かき、夏は人間のために芝刈りをした。いろんなお店でバイトをして、とにかくお金を稼ぐためなら何でもした。一年中、休むことなく……。
「大学に行くために、そのお金が必要なの!」と私は言う。
「大学?」ベータは眉をひそめ、そして……、笑った。笑ったんだ!
マリアとジョエルも一緒になって笑う。
「これのことか?」彼は机の上に置いてあった見覚えのある封筒を手に取った。
ウエストバージニア大学の合格通知と、同封されていたパッケージ全部。私の部屋に置いてあったものだ。何でここにあるの? 私は振り返ってケイトリン・ローズを睨んだ。でもケイトリン・ローズはただにやにや笑っているだけだった。彼女は私を正面から見据えたことがない。
「ああ、クインシー。一体誰がそんなおかしなアイデアをあなたに与えたの?」マリアはまだ笑っている。
「ここから一歩も外に出たことがないおまえが、外でやっていけるわけがない。外は危険で恐ろしい場所だ。おまえは外の世界がどんなところなのか何も分かってない」ベータ・セント・マーチンが続ける。「私たちがおまえを保護しているから、ここで安全に暮らせている。その優しさに感謝しろ」
ほんの一瞬、私は揺らいだ。確かに私はループ・ノワール・パックのテリトリーの外に行ったことがない。外は本当に怖いのだろうか?
そんなに危険なら、なぜナナは私に行くよう勧めたのだろう?ナナは私なら行けると信じてた。この人たちは私のことを何も知らない。
「それでも行きたい!」と私は言った。私の声は意外にも自信に満ち、力強く聞こえた。
ベータは何かを図るように目を細めたかと思うと、手にしていた封筒を中身と一緒に二つに破り、テーブルの横のゴミ箱に投げ捨てた。
いやあああああ!!!
「言っただろう、お前はどこにも行かない。それだけだ!」命令調の荒々しい言葉でベータが告げる。
私は頭に血が上り、自分の鼓動が耳元で鳴るのを感じた。彼に対する憎悪が高まっていくのを感じる。
「おまえはここから出ていくことはできない」彼はさらに脅迫じみた声色で私に言う。ベータの権力だかブードゥー・パワーだかなんだか知らないが、そんな脅しが私には効かないのを彼は知らないのだろうか?
「このくそベータが!」私は叫んだ。
部屋にいた人たちの息を呑む音が聞こえる。私が再び口を開こうとしたとき、彼の大きな手が私の首を締め付けた。気管を強く圧迫され、酸素を吸い込もうとするのを止められる。心拍が急上昇する。パニックに陥った私は、彼の手を引っ掻き始めた。
苦しさは一瞬のうちに終わった。次の瞬間、私は再び自由になり、床によろめいた。
私はゼエゼエと喘ぐような音を立てて空気を吸い込み、ふらふらしながら喉を触る。
「もう少しで彼女を殺すところだったんだぞ!」とジョーデンがどなる。顔を上げると、ジョーデンが両足を広げて父親と向かい合って立っている。両手は父親の腕をつかんでいる。
ベータ・セント・マーティンはジョーデンの手を振り払い、私を見下ろして唸る。彼の目が危険な光を放ち、彼らが何であるかを私に思い出させる。そう、彼らは人狼だ。
私はベータをまったく信用していない。彼らの誰も信用できない。1分たりとも。
「誰かにこいつをしっかりと躾けさせろ。こいつにはちゃんと自分の立場をわきまえさせるべきだった! 私の母は何も教えてこなかったようだ」そう言ってベータはジョーデンから離れた。
私の目は彼の一挙手一投足を追う。ベータが私にとどめを刺しに来ても対応できるように……。
彼はテーブルを回って椅子に座った。その口元は冷たく、不吉で、計算高い笑みを浮かべている。彼はテーブルから小切手を取り上げると、ためらうことなくそれを二つに裂いた。
「おまえに300ドルは気前が良すぎるだろ」と言って。
私は口を固く結んで、手のひらに鋭い痛みを感じるまで拳を強く握った。
「もう行っていい。他に話すことはない」そう言ってベータは私を部屋から追い出した。
***
私は朝からずっと暗く息苦しい自室に閉じこもっている。ベータの手がまだ私の喉を絞めているのを感じる。首の周りに赤い絞め跡がある。唾を飲み込むのも痛い。
生まれて初めて、本当に絶望的で無力だと感じた。ナナが亡くなった後でさえ、これほど無力感を感じたことはなかった。確かに、唯一私を愛してくれた人を失ったショックは大きかったけど、その時の私はこの場所を出て行くという決意を、かつてないほど固めていた。
今、私はここから出るために必要なものを失った。
たぶん、このままずっと群れで暮らすのも悪くないはずだ……。
……別に大学になんか行かなくても……、少なくとも私は生きている……。明日はもっと前向きに生きていける理由を見つけられるかもしれない……。
状況や人に失望すると、私はいつも悪いことが起こる言い訳を作り上げる。あるときは作った自分の嘘を信じるし、あるときは信じない。そんなことはどうでもいい。
今回、私は敗北感に肩を落とすのを感じる。ベータが私の首に手をかけたとき、母親は助けに来なかった。今度こそ私が「母」と呼ぶ見知らぬ人の行動に対する言い訳が思い浮かばない。
この人たちは……、いや、この人狼たちは本当に私を壊したがっている。毎日、私は上を向いて、微笑む理由を探している。でも今日は完全に負けた気がする。壁に押しつぶされてしまうように感じる。
これまで以上にナナが恋しい。ぼろぼろのテディベア——オリバーを胸に抱きしめる。
自分を哀れんでなんていない。自分を惨めだなんて思っていない。自分がかわいそうだなんて思っていない。
私のナナは弱虫や泣き虫を育てなかった。それでも私の目からは涙が零れる。
涙は弱さの表れではないってナナは言ってた。泣くことで目の汚れを洗い流し、目がよく見えるようになることもあるって。
ただ、あまり頻繁にはやらないこと。そうしないと、目玉が滑りすぎて、眼窩から落ちてしまうって。私はあまり泣かないから、目玉はそんなに滑りやすくない。
だから、今夜は涙が溢れるままにした。
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