運命の相手と思った黄金神であるカスピアンに自制心を失って惹かれるクインシー。でも彼はクインシーに気があるのに意地悪なアプローチをしてくるため、クインシーは苛立ちも同時に感じる。友人のレイラに打ち明けることで改めて彼への気持ちが止まらないことを自覚するが、彼の気持ちを信用することが出来ずに自分に関わらないよう伝えてしまう。
クインシー・セント・マーティン
「クインシー・セント・マーティン……」その響きを確かめるように彼は優しく口にする。彼の舌を伝う私の名前に背筋がゾクゾクした。
さっき回ってきた出席シートにサインをした。彼はたった今、私の名前を知ったみたいだ。
「クインシー……」 彼が独り言のように呟くのを聞き、そして苦笑する。「どんな皮肉だよ……」彼は言う。「完璧だ」
どういう意味? 本当に彼はうっとうしい! 私の名前をバカにしているの? もしそうなら、私は喜んで彼の目をこのペンで突いてやるわ。絶対に。私は振り向きざまに彼を威嚇する。私はペンを掲げ、警告のために刺すような動きをする。
彼は、まるで私を面白がっているかのように、静かに笑い出した。
「姫、その思わせぶりな仕草はやめてくれ」彼は私にも、興味津々な隣の席の子たちにも聞こえるくらいの声でささやいた。「俺の頭の中でいろんな想像をしちゃうだろ。ムラムラして勃起するから……。あんなこととか、こんなこととか……」
なんなの、この男は! 口を閉じる前に、思わず私の唇から小さな呻きが漏れた。誘惑に負けて、今この瞬間に殺人を犯してしまわないように、手の中にあるペンをさらに強く握った。
私は何も言わずにクラスの前に向き直る。ここが一番後ろでよかった。
腹が立つ。
はっきり言おう。彼が私の繊細な良識を傷つけたから腹を立てているのではない。いや、そんあなことじゃない。私が彼に腹を立てているのは、彼が私を笑わせ、彼が今言ったことと同じくらい、いや、それ以上にバカで下品なことを言いたくなってしまったからだ。
私はもっとくだらないことを言って、周りの子たちにショックを与える誘惑に駆られる。だって私たちの会話に熱心に耳を傾けている子たちを驚かせる——それが彼のやっていることだから……。
何よりも重要なのは、この会話の本質は下品なことを言い合って、お互いを刺激し合いたいってことだ。こんなことに付き合うべきじゃないのに……、なのに……、抑えられない自分がいる。
彼の何が私をこんなにワイルドにさせるのかがわからない。彼を殺すか、彼の会話に乗るか……、もしくは彼の上にまたがるか……、今の私にそれ以外の選択肢がない。
彼は、私自身を除けば、私がこれまでに会った中で最もうっとうしい人でもある。確かに、私は彼をそれくらい理解している。ちょっとでも彼を理解しているって思うのがまた自分を苛立たせる。
私はこれまで、自分が殺人を犯すような人物だと思ったことは一度もない。相手がどんなに苛立たしい人であっても、人に危害を加えたいと思ったことはなかった。あぁ、そっか。私は普段からうっとうしいけど、同時に優しくもある。だから、優しさとうっとうしさは人の中でバランスが取れるものなんじゃない? きっとそうだ。
そうじゃないとすれば、この世界が私になんとかして大切な教訓を与えようとしているんだろう。
今日一日、私は彼を無視し、全力で避けようと懸命に努力してきた。でも彼は私が行くすべての教室にいた。彼が私の邪魔をしていないときでも、私は彼の視線をずっと感じていた。彼から逃れることができなかった。家に帰る頃には、私は疲れ果てていた。彼を避けるのが私の仕事になったみたいだ。
***
私はぼろぼろのテディベア、オリバーを抱きしめ、横向きに寝転がりながらため息をついた。夜11時過ぎのベッドで、まだ彼のことを考えている。うぐっ!!
彼のことが頭から離れない。日中ずっと、そして今もずっと彼のことを考えている。ノンストップで一日中ずっと! 丸16時間、彼のバカみたいにゴージャスな顔が頭の中にある。
私は体を起こし、枕をふかふかにしてから頭を枕の上に落とした。彼のことを考えると眠れない。今夜なんとか眠りについても、きっと彼の夢を見るだろう。悪夢かもしれない。どっちなのかは捉え方次第だけど……。
「男の悩み?」レイラはベッドからフクロウのように私を覗き込む。
彼女はベッドの上にあぐらをかいて座り、目の前にはノートパソコン、周りにはノートと数冊の本がある。彼女のノートパソコンと、小さな机の上に置かれた小さな勉強用の卓上スタンドが、今私たちの部屋にある唯一の光源だ。
「なんで悩んでるってわかるの?」私はルームメイトに尋ねた。
「だって、もう15分も寝返りを打ちながら、ぶつぶつ独り言を言ってるし、一週間以上もボーっとして歩き回っているでしょ。首の大きなキスマークについても触れた方がいい?」とレイラは言う。
「私が気づかなかったとでも思った?私はおせっかいにならないように我慢してただけ。でもダメだったわね」彼女はすぐにそう付け加えた。
「もっと努力が必要ね」私は彼女に言った。
「何言ってるの、こんなに長い間なにも聞かずにいてあげたなんて、絶対勲章ものよ」と彼女は言う。「それで、男の悩み? レイラに話してみなさい」
レイラは自分のことを三人称で話すのが好きだ。うん、彼女は変な子だ。
「どうして男のことだと思うの?」私は言う。
「違うの?」彼女は片眉を上げる。
「ええと……」私は席を立ち、頭を掻く。
見ず知らずの人に嘘をつくのは平気なんだけど、友人や大切な人に嘘をつくと頭がかゆくなる。
レイラに嘘をつきたいわけではないけど、彼女とこのことを共有すべきかどうかわからない。男の悩みを打ち明けたことがあるのは、ナナだけだった。ナナはとてもステキ人だったし、私は話ができる友達のいない哀れな負け犬だった。
まだ高校生だった頃、私は人間の友達が一人もいなかった。人間が『彼ら』のことを知らなくても、私は『彼ら』の一人とみなされていたからだ。
『彼ら』つまり人狼たち——特に女の子たち——は、人間である私のことを嫌っていた。私はどこにも属せなかったから、結局誰とも仲良くなれなかった。いい時代だった。
そう思ったときにふと気がついた。今、私にはガールフレンドがいる。そう、女の子の友達だ。レイラは私の友達だよね? エベリンを入れると二人。わあ、これってすごくない!
レイラに話さない理由なんてない!
「それで?」レイラは私に近づくために本を脇に押しやって、ベッドの脇に足をかけた。
「うん、ある男がいるんだ」
レイラの顔に大きな笑みが広がる。「やっぱり! 男がいるんだ!」
「黙って聞いて!」私がそう言うと、彼女は唇にチャックをするように手を動かす。
「とにかく、この男、本当にうっとうしくてね。ものすっごくうっとうしいの。あいつが口を開くたびに、頭を殴りたくなんだから……」
もしくは死ぬほどキスしたくなる
「彼はたんに……。あ゙ー!!! 私はね……。あー、もう! とにかく、どうしたらいいのかわからないの。どこに行ってもそこにあいつがいるんだもん……」
「彼って、少なくともかわいいの?」レイラが聞く。
「かわいいかって? ああ、レイラ……」 私はため息をつき、枕に頭を預けた。「あいつはゴージャスなの! 彼は超ホットなのよ!」
「そうなんだぁ。キスマークをつけたのも彼?」
私の手はすぐに首の大きなあざを隠そうと上がり、頬が熱くなった。それはレイラにとっては言葉以上の回答だったんだろう。彼女の笑顔が大きくなった。
「ワオ! 超ホットでゴージャスな男があなたに夢中で、放っておかないってこと?」彼女が言う。
「すごいでしょ?」
「肌から彼の口を剥がすのも大変そうね……。大問題っていうのがよくわかるわ」レイラはあごに指を当ててうなずきながら言う。とても真剣で賢そうに見える。
私はオリバーを胸に抱きしめて体を起こし、彼女の賢明なアドバイスと知的な解決策を待った。
「やっちゃえ!」彼女は真剣な顔をしてそう言った。「その人とやっちゃえばいいって言ってるの」
「何言ってるの!」悲鳴に近い声が出た。「レイラ!」私は枕をつかみ、彼女の頭に投げつける。
レイラはそんな私を見て爆笑している。「わかった、わかった。ごめん。ちょっとからかっただけよ。でもそんなにダメかなぁ? あ、いや、うん……。マジで悪いアドバイスだ。悪い子(バッド)レイラ」と彼女は言う。「でも……、実は……?」
「全然助けになってない!」と私は叫ぶ。「それに、あいつはヤリチンよ。ジョナよりひどいかも」
「なるほど、ちょっと問題があるみたいね」
「ちょっとって……」
「でも、なんで彼がヤリチンだって知ってるの?」
「だって、あいついつも女の子に囲まれてるから……」
「そうなんだぁ。じゃあ、その人はいつも女の子とベタベタしてるってことね」
「い、いや……、そういうわけでもないかな。いつも女の子が周りにいるって感じ……?」
「そうか。その人は誰かと付き合ってるの?ただの友達? それともみんな彼と付き合っているの? もし女の子たちの誰かと付き合ってるのにクインシーに手を出してるなら、間違いなく最低なやつね、そうじゃない?」
「あ゙ー、もう、レイラぁ! そんなにいろんなこと聞かないで!」私はイライラして言う。
うぐぅ。私が知っているのは、あいつの周りに他の女の子がいるのを見ると——基本的にいつもだけど——、暴力的な思考を持ち始めるっていうことだけだ。この嫉妬はどうにかしないとダメだ。あいつは私の彼氏じゃないんだから……。
「それに、彼は人間じゃないし……」と私はレイラに言った。
少し前にレイラの母親が人間で、人狼の番いになっていることを知った。どういうわけか、レイラだけが4人兄妹の中で唯一内にオオカミを有していない。
「その人は何? 人狼? フェアリー? だとしたら近よらない方がいいわね。いずれその人が番いを見つけたとき、大変なことになるわ」とレイラは言う。
そうだ! そんなこと考えてもいなかった。もしどこかに番いがいたら? なぜかそのことで胸がかきむしられる。かなり……。しばらくの間、私たちの間に沈黙が流れる。
「内にオオカミが存在しないってとわかったとき、辛かった?」カスピアンに番いがいるかもしれないことを考えないようにしながら、私はレイラに尋ねた。他の女性。そう思うと胸が痛む。
私と違って、レイラの家族は彼女を愛している。私と違って、レイラは人狼の番いがどこかにいることを望んでいる。彼女はしばらく黙って考えたいた。レイラは私の質問に答えてくれると思う。
「人狼のなかには、オオカミになるのが遅い者もいるって来たことがあるわ。16歳で人狼になる子もいるし……、だからレイラもいつかオオカミになれるって思ってた。16歳になってもダメだった。ものすごく落ち込んだの。ずいぶん長い間、惨めだったわ」彼女はため息をつく。「18歳になったとき、それでも番いがわかるんじゃないかって期待してた。でもそれも叶わなかったの。家族のみんなはなんとかレイラを励まそうとしてくれたわ、特にママが……。彼女は人間だから、わかるって。ママは私たちは同じよって言ってくれてたけど、でも彼女には私の父という番いがいるから、同じじゃないのにね」
かわいそうなレイラ。彼女はとても悲しそうだ。
「妹が番いを見つけたときは、耐えられなかったの。妹のことは素直に嬉しかったけど、自分が一生得られないものがあるって事実を突き付けられたみたいだったわ。それで群れに属するのはやめようって決めて、ここに来たの。家族はあまり喜んでくれなかったけど、私たちの群れの住処はそんなに遠くないから、いつでも好きなときに会いに行けるしね。正直に言うとね……、いつかレイラも番いを見つけることができるって今でも期待してるの」
私はベッドから飛び出し、彼女を抱きしめた。勢いでベッドの上に転がって、レイラはまた笑い出した。
「でも、あなたは人間の男性とも付き合えるのよ!」私は彼女を強く抱きしめながら言った。「よりどりみどりってこと、レイラ。食べ放題のバイキングみたいにね! 想像したらおいしそう!」
「ふー、クインシーもいつかわかるようになるわ。どれだけバイキング料理に囲まれていても、一品料理の柔らかくてジューシーなステーキがあれば、それ以外は何も欲しくならないってこと……。しかもそれが、夢にまで見た、超最高級のフィレステーキならなおさらね。だってバイキングにはたいしたことない料理しか並んでないでしょ?」
少し考えてみた。
「ねぇ、クインシー。もしその人が女ったらし(プレイヤー)じゃなくて、人間だったら、付き合う? それとも、その人と付き合いたくない理由がもっと他にあるの?」
「えー、でもあいつはまさにそれじゃん! 女ったらし(プレイヤー)っていうか……、そうでしょ? 忘れないで。私は人間じゃないのとは付き合いたくないの」
本当にそうだろうか?
「ジューシーなステーキも、それが私のジューシーなステーキでないなら、欲しくない」
問題は、どうすれば彼が私を放って置いてくれるかっていうことだ……。でも、もっと大きな問題は、私は本当に彼に放って置いてほしいのか、っていうことだ。
***
今朝の最初の授業で、カスピアンは私のすぐ横に座った。私を見ている。私はカスピアンを無視しようと頑張ったけど、うまくいかない。窓から朝日が差し込み、彼の金色の髪がキラキラと輝いている。カスピアンのグリーンの瞳は生き生きと輝き、私だけに注がれている。あまりの美しさに胸が痛む。
「なんでこんなことするの?」私はついにカスピアンに尋ねた。
「俺と付き合って欲しいからだよ、姫」
「なぜ私を姫と呼ぶの?」
「だって、君は俺の姫だから」
「ヤリたい女の子をみんな、俺の姫って呼んでるの? それっていつも上手くいくの?」
「ちょ、ちょっとストップ!」と彼は言う。「まず……、ヤる? マジで? あと、俺は今まで他の女の子を俺の姫って呼んだことはない。一度もね。それから、俺は君とヤリたいんじゃなくて、付き合ってもらいたいんだ。ヤるのは後でいい。ずっと後でも……、いや、君がしたいって思う時でいいんだ。本当に。だからそこまで後でなくてもいいけど……」
私は白い目で彼を見る。
「ごめん、ちょっと脱線したね」と彼は頭を下げる。
彼の手が首の後ろをマッサージする。照れくさそうな顔を浮かべるその表情にさえも魅力的だ。それが愛おしいと思うのが私は少し悔しい。
「俺が言いたいのは、もっとよくお互いのことをわかり合いたいってこと。だから、晩ご飯でも一緒にどう? いつでもいいよ。それとも屋根を直しに行こうか?」
「お断りよ」私は小さな声で答えた。修理する屋根なんてないし……。
「痛い! また心臓を撃ち抜かれた」と彼は言う。
カスピアンはまた微笑んでるけど、その唇はまっすぐな白い歯の上で薄くなっている。これまでのことがなければ、私はカスピアンの感情を傷つけてしまったとか、我慢の限界に来てるのかなとか思っていただろう。
「もう、関わらないでいてくれる?」私はカスピアンに求めた
「姫、本当にそれでいいの?」笑顔がカスピアンから消える。彼の目は私の顔を真剣に見つめている。「本当にもう関わって欲しくない?」
本当に? 私はもう一度、彼が人間ではないこと、どこかに番いがいるかもしれないこと、そして彼が女ったらし(プレーヤー)であることを自分に言い聞かせようとした。私はカスピアンにとって大勢の中の一人なのかもしれないから。