ベル
全身を覆った高揚感から、その名前には隠された重大な意味があるように思えた。互いに伸ばした手で握手したあと、私は再び席にもたれかかった。ミズ・ヴィオット、ごちそうさま。心から感謝しているわ」
「エヴァンジェリンと呼んでね。ミズ・ヴィオットって呼ばれたことがないの。だから呼ばれても自分じゃないと思っちゃうわ」
「じゃあ、エヴァンジェリンで」
彼女は数秒ほど私を見てから続けた。「あなたのパートナーにあなたの居場所を教えるつもりはないってことを知ってほしいの。あなたの過去を考えると、あなたには隠れる権利があると思う」
私の胸は高鳴った。彼女が私の居場所をグレイソンに教えるかもしれないことすら、私は考えもしなかった。ホッとしながら「ありがとう。彼に見つからないことがとても重要なの」と告げた。
彼女の笑顔が消え、真剣な表情に変わった。あっという間にその手をテーブルの向こうに手を伸ばし、私の手を握りしめた。
「ベル、この先、あなたは長い旅をすることになる。それも楽な旅じゃない」
「どういう意味?」
「パワーは正しい手に委ねられれば悪いものではないと知ってほしい。自分本来の能力が覚醒するのは、最初は怖いかもしれないけど、あなたにはそのパワーを制御する以上の能力があるの。怖がる必要はないわよ」
彼女の言い方は謎めいていた。理解できない私は「どうしてそんなことがわかるの?」と聞いた。
「あなたを見ていると、今のあなたくらいの年頃の自分に似ていると思うの。あなた当時の私もパートナーを恐れていたわ」
「本当に?」と私はたずねた。この素晴らしく親切な女性でさえ、こんなに辛い経験をしてきたことがどうにも嫌だった。
「理解できない。相手を利用するだけの人狼がソウルメイトに恵まれるのはなぜ? 私の母も自分のパートナーを怖がっていたわ。彼も母を虐めていた。私のパートナーもそうだった」
「私のパートナーは虐待しなかったわ。その逆よ。誰ひとり見向きもしない私の世話をしてくれたの。残酷な運命から救ってくれたわ」
「それなら……なぜ彼を怖がったの?」
「説明するのは難しいわ。まず、人狼は恐ろしい生き物だということ。最初は一緒にいることを躊躇してもいい。特に相手がこちらを所有すると言い出したらね。
「私が過去に関わった人々も、私を誰も信用できない人間にした。だから、彼が何を求めているのかわからなくて、それが怖かった。でも今は彼がいなかったらどうなっていたかわからない。彼は私の人生で最高の存在よ」
彼女の口調に込められた純粋な愛情に、私は喉がヒリヒリした。認めたくはなかったが、私は彼女の人生に嫉妬していた。私だって、グレイソンとそんな人生を送れると確信していた時期があった。
突然、パートナーと一緒にいたいという強烈な憧れがわいてきて、すぐに押し殺した。私、どうしちゃったの? 彼は私を嫌っていた。私を憎んでいた。なのに、それを思うと、泣きたくなるのはどうしてなんだろう?
どうにか涙をこらえながら、私は胸が詰まるような思いを飲み込んだ。
「私のパートナーが、あなたのパートナーと同じように私を愛してくれていたらと思うわ。グレイソンは他の女と寝たし、私のパワーがほしいからそばに置いておくだけだと言ったの。二度と彼に会わないことを心から願うわ」
エヴァンジェリンは悲しそうに微笑んだ。「本心じゃないでしょ」
「ええと、本当に、そう思うの」
「いいえ、それは嘘よ。彼に会いたいんでしょ。とても。それでもいいのよ。大変な試練のあとでも彼を恋しく思うのは構わないの。
「彼はあなたのパートナーよ。あなたのソウルメイト。だからこそ、彼があなたにした仕打ちを憎んでもいい。愛する人がそんな仕打ちをするべきじゃないもの」
なぜ彼女が私にこんなことを言うのかわからなかった。私がどう感じているのかとか、拒絶されたパートナーにどう対処しているのかとか、なぜ彼女は気にかけるの?
「あなたの携帯電話を貸して」と、私が質問する前に彼女は言った。
何も考えずに携帯電話を渡している自分がいた。
彼女はすぐに何かを打ち込んだ。「何かあったら電話してね。いつでも力になるから。あなたはまた私と話したくなる、そんな予感がするの」
返された携帯電話を見ると彼女の番号が入っていた。
「私……」
すると「ベル、何をやっているんだ?」と誰かが言った。
背後に目を向けると、厨房の入り口の前にバートが立っていて、困惑した表情で私を見つめていた。
「あ、ちょっと、今、お客さんと一緒に食事を……」と目の前の席を見ると、そこには誰もおらず、衝撃を受けた。
「彼女はどこ?」 ダイナーを見回したがエヴァンジェリンの姿はどこにもなかった。
「誰かの食べ残しを食べているのか?」と、バートは続けた。
私は目の前の食べかけの食事に目を落とした。「えっ? 私と向こうの席に座っていた女性のために、さっきあなたが作ってくれたじゃない」
バートはエヴァンジェリンの手付かずの料理と空席に目をやって眉をひそめた。「ベル、君、もう我慢の限界なんじゃないか? この3時間、注文なんて入ってないよ」
「でも……本当なの、向こう側に女性がいて……」
「正直、こっちも疲れているから、そんなことはどうでもいいんだよ。大して影響ないし。なあ、俺、そろそろ帰りたいから、もし今夜ひとりで店を閉めてくれるなら、厨房から料理を盗んだことはボスに内緒にしてやるよ」
「今すぐ帰りたいの?」と、バートに聞き返した。「でもダイナーの就業時間までまだ2時間あるよ。私ひとりでウェイトレスとコックは無理よ……」
厨房の窓の上にある大きな時計を見上げると言葉を失った。時計は午前2時を指していた。
私は後ずさりした。エヴァンジェリンと2時間も話していたの? そんなはずはない。せいぜい30分くらいよ。食事を済ませる時間さえなかったもの。
「あの……」とバートの方を向くと、彼は「こいつ、頭のネジが外れたぞ」というような目で私を見ていた。
「そこにいない人と話す、知らない人の食べ残しを食べる、時間の感覚がイカれる……3本連続でネジが外れてるぞ、ベル。頭も体もまともに動いてないんだから、一晩ぐっすり眠ったほうがいい」
彼が正しいのかもしれない。もう我慢の限界がきていたのだろう。眠れぬ夜と、かつてのパートナーを恋しがっていた時間が、私を蝕んでいたに違いない。
「それで、僕の代わりに店を閉めてくれるのかい?」 バートはまた質問した。
睡眠が必要だと私を諭した直後に自分の代わりに残業してくれと言うなんて、ちょっと面白いと思った。
顔を撫でて混乱と疲れを消し去って、「ええ、もちろん、今夜は私が閉めるよ」と答えた。
どうせ今夜は眠れないだろう。赤い目のグレイソンに脅されるのを先延ばしできるなら、それでいい。
彼は満面の笑みで「君は本当に親切だ」と言った。
すぐに彼がドアを出て行くのを見るまで、帰宅準備ができていたことにすら気付いていなかった。私はひとりきりになった。
座っていたブースにへたり込み、エヴァンジェリンの手付かずの皿を見た。
一体何が起こったのかわからなくて、まだかなり混乱していたが、正直なところ、今はそれについて深く考える気力がなかった。
今の関心事は、とっととダイナーと厨房の後片付けをすることだった。明日の朝もここを開けるのだから、家に帰って少しでも寝ようと思った。
あと5時間足らずでここに戻らなければならないと気づいたとき、うめき声が出た。
それでも、ネズミだらけのワンルームで痛みを無視して、あの人のことを考えないようにする以外にやることがない状態よりはマシだと思った。
痛みといえば、エヴァンジェリンが姿を消してから初めて気づいたのだが、飢えたパートナーの絆が引き起こす痛みをまだ感じていなかった。
私の身体は数か月ぶりに平穏を取り戻し、痛みも目もくらむような頭痛もなかった。エヴァンジェリンは私の痛みを引き受けたと言っていたが、どうやって? それってまた私に返ってくるの?
彼女は長くはもたないと言っていた。
今のうちにこの状況を利用しようと思い、私は立ち上がり、自分のテーブルともうひとつの汚れたテーブルを片付け、お皿を洗おうと厨房に行った。
バートがすべての食器を私に残していったのを見て、私はため息をついた。彼はこの数時間、注文がないと言っていたはずだ。その間、彼はいったい何をしていたのだろう?
どうやら私はもうしばらくここにいることになりそうだ。