
契約結婚 ―魅惑と欺瞞― 6巻
ブラッドは、壊滅的な飛行機事故の後、息子のザビエルとその妻アンジェラがどこにいるのかを不安で待ち続けていた。奇跡的に夫婦は生き延びたが、アンジェラが記憶喪失状態に陥り、夫ザビエルを忘れてしまう。記憶喪失のアンジェラは夫だと聞かされたザビエルが何かよそよそしい態度を見て、自分たちの関係はあまり良くなかったんだろうと察する。一方ザビエルは無人島で二人の間に新たな絆が芽生えたことを感じたが、金目当てのビッチと罵り続けたアンジェラをすぐに受け入れることは出来ず、激しく葛藤する。
対象年齢:18歳以上
目を覚まして
ブラッド
炎。
残骸。
瓦礫。
画面から目を離すことができなかった。ようやく機体の一部が見つかったが、生存者についての知らせは依然として届いていない。
息子と娘が生きているのか、それとも……。
妻を失った上に、私に残された唯一の家族も失うかもしれないだなんて、考えただけでこの老人には耐えられないことだった。
落ち着こうとする私に、テレビの声が追い打ちをかけてくる。
「速報です。カリブ海上空での墜落事故で多数の死傷者が出ていることがわかりました。億万長者のザビエル・ナイト氏や彼の新妻、アンジェラ・ナイト夫人の行方については未だ明らかになっておらず……」
リモコンを掴み取り、音を消した。これを見ていることしかできないくらいなら、自分の人生が崩壊するほうがずっとましだ。
「全部私のせいだ」歯を食いしばりながら自分自身につぶやいた。「あの子たちにハネムーンになんて行かさなければ……」
まぶたが熱くなるのを感じた。リモコンを壁に投げつけ、割れる音と、電池の飛び散る音がなんだかおかしかった。何かを壊すことに心地よさを覚えた。
しかし、この快楽が一時的なものだということくらい、私は知っている。
これからどうやって前に進めばいい? もし最悪の恐怖が現実になったら、自分許すことなんてできるのだろうか?
突然、ポケットの中で電話が震えるのを感じ、私は震える手で取り出した。これを見てしまえば、私の人生、私の王国、私がずっと描いてきた未来が消えてしまうかもしれない。
メッセージの相手は、私が信頼を置いている秘書のロンからで、そのメッセージを開いたとき、私はにわかには信じられず、目を見開いた。
その手。その女性の指にはめられた、結婚指輪。私が分からないはずがない。だって、アンジェラの指輪は、かつて私のアメリアの物だったのだから。
私は急いで荷物をまとめ、オフィスを出た。ほっとして涙が出そうだったが、こらえた。私が従業員の前で感情を見せることは、普通ならありえないことだった。
しかし、今日は普通の日ではなかった。
エレベーターに急いで向かうと、皆が私を見ているのを感じた。その視線からは哀れみや心配を感じたが、彼らは知らないのだ―、ザビエルとアンジェラが無事だということを。
この目で確かめるまでは信じられるとは言い切れないが、心はそれが真実だと言ってくれているようだ。
ザビエル
まぶたが重すぎてセメントのようだ。これ絶対、もう当分動かせないな。
そろそろ目を開けたほうがいい気はしていたが、今は暗闇がとても心地よかった。あの厳しい日差しに、容赦ない太陽、彼女と過ごした島での短い時間の後では……。
その顔が頭に浮かんだ。アンジェラ。俺の世話をしてくれ、食事を与え、傷を手当てしてくれた。俺が絶えず侮辱してきた女、金目当てのビッチだと罵倒してきた、俺の妻。
片方の目を開けてみた。そしてもう片方も。視界は完全にぼやけていたが、冷たく、無機質な病室であることはなんとなく分かった。
すぐに、目を閉じて暗闇に戻りたい衝動に駆られた。ありえないほど体がだるい。でも、その瞬間、俺はまたアンジェラのことを考えた。
会わなければ。あいつの無事を確認しなければ。俺の隣にいるのかと思ったが、顔を上げて見渡しても、隣のベッドは空っぽだった。
あいつはどこだ?!
「看護師さん……」俺はかすれた声で言った。「看護師さん!!!」
まるで誰かに砂を喉に流し込まれたかのように、喉が乾燥していたが、そんなことはどうでもよかった。あいつを見つけなければ。
ずっしりとした、仏頂面の看護師がタブレットを持って部屋に入ってきてたかと思うと、俺のバイタルサインをチェックし始めた。この女は俺の目を見ることすらしない。
「あいつはどこに?」と俺は尋ねた。
しかし、看護師は俺の声が聞こえていないか、あるいは気にしていないのか。片方の耳にはイヤホンがついていて、胸元にぶら下がっているもう片方のイヤホンからR.E.M.が流れてきた。まだR.E.M.を聴いているやつなんかいるのか。
「質問をしてるんだが」俺はイラついていた。「あいつは一体どこにいるんだ?!」
看護師はようやく俺と目を合わせて、肩をすくめた。信じられないほど厚かましい態度だ。怒りが胸から湧き上がり、首筋に広がり、俺は顔が赤くなるのを感じた。
この看護師に俺がどれほど重要な人物かが伝えられていないことは明らかで、女はドアに向かって歩き始めた。
「おい!」俺が叫ぶと、女はようやく振り返った。「俺の妻の、アンジェラ・ナイトは…」
「彼女がどうしました?」女は冷たく尋ねた。
「あいつが……」俺はそう言いかけて、止まった。
突然、文章が上手く組み立てられなくなった。今まで知らなかった感情や、思いが溢れ、窒息しそうだ。俺はまだ、彼女が無事かどうかも知らないのだ。
「お願いだ」俺は言った。こんな言葉、使い慣れていない。「教えてくれ。あいつは無事なのか?」
看護師の目に何かが変わるのを感じた。少しの同情かもしれない。そして女は頷いた。「すぐそこ、廊下の奥の部屋にいます。心配はいらないですよ」
そして女は出て行き、俺は一人になった。よかった、と俺は安堵のため息をついた。
いつからか分からないが、俺がアンジェラを嫌いじゃなくなったそのときから、今までとは何もかもが違うように感じる。
俺を見つめる明るい青い目。風に乱れる金髪。水に沈んでいく、あの完璧な身体……。
何てことだろう?
俺は今、アンジェラのことを妄想しているのか?
俺は多分、脳にダメージを受けているんだろうし、だとしたらそれを振り払わなければならない。俺たちは現実の世界に戻ってきたのだ、それは日常のルーティンに戻るということで、再びあの女の嫌いになり方を思い出さなければいけないということだ。
何というか、まあ、自信はないけど。
「ザビエル!」
それから数時間後、病室のドアが勢いよく開き、父が中に駆け込んできた。父がこんなに……乱れた姿を見るのは初めてだった。
普段きちんと整えていた髪は、いろんな方向に跳ねていた。テーラーメイドのブリオーニのスーツはミキサーにかけられたかのようシワシワだ。目は赤く腫れ、俺が幼い頃から尊敬し、恐れていた冷静で鋭いCEOの目とはまるで違っていた。
「父さん?」と俺は驚いて尋ねた。「ひどい見た目だ。大丈夫か?」
「俺が……?」
父は首を振り、俺の肩を掴んで笑ったが、その表情は痛みに満ちていた。
「ザビエル、お前を失ったかと思ったよ。てっきり……」
「大丈夫だよ、父さん」俺は少しうざったく思いながら、そう言った。
これほど強い人間の、弱っている姿は見ていられなかった。俺が人生で父のこんな様を見るのは、母が亡くなったときだけだった。
「ザビエル」父はそう言って、俺のベッドの隣に座り、目を潤ませた。「ニュースでは、犠牲者が出ている……」
「誰だ?」俺の身体は急に強張り、こう尋ねた。「機内の誰かが死んだのか?」
父は目をそらして、悲しい表情で言った。「パイロットの、ジムだ」
「あぁ…」そう声が出て、自分が思っているよりショックを受けていることに気づかされた。「ジムの家族への連絡は?」
父は重々しく頷いた。「すでに連絡を取り、できる限りの補償を伝えたよ、ジムの代わりにはならないことは分かっているが」
「なら良かった」と俺は言ったが、何も良くない。良いことなんて何ひとつない。
「息子よ、でも私は感謝しているんだ」父は再び口を開いた。「お前の母さんだけでなく、お前まで失うかと思った……、そうなったら耐えられなかった」
父が過ごした眠れない夜、計り知れない恐怖と心の痛みを、ようやく俺も感じた。島でアンジェラと過ごした時間は酷いものだったが、少なくとも俺たちは一緒だった。
生きるか死ぬかの二択で、曖昧なものはなかった。しかし、父にとっては、俺たちに何が起こっているのか分からないまま過ぎる毎秒が、地獄の苦しみだったに違いない。
俺が感傷的になるなんて自分でも気持ち悪いが、俺は父の手を取った。
「大丈夫だよ、父さん。全て大丈夫だ」
父は頷き、涙を拭った。それから周りを見回すと、眉をひそめた。「アンジェラはどこだ?」
看護師の態度は相変わらず悪かったが、ようやく俺たちにアンジェラを訪ねる許可が出たので、俺は父とゆっくりとアンジェラの病室に向かった。
腕の傷が痛み、身体に気を遣いながらのことだった。父は優しく俺の背中に手を当て、ドアを開けて俺を部屋に入れてくれた。
そこに、あいつがいた。眠り姫かのように、しずかに、じっと。
俺の妻だ。
アンジェラ・ナイトだ。
俺がずっと悪魔だと思っていた変な女は、実は変装した天使だったのだ。父はアンジェラを見て頭を振った。
「ザビエル、彼女はとても美しく、純粋だよ」父はそう言った。「見た目だけじゃない、魂もだ。お前にも分かるだろう?」
俺は今まで父がアンジェラに何を見ていたのか本当に意味が分からなかった。しかし今、ここに横たわって、胸を上下させ、目を閉じているアンジェラの姿を見て……。俺は奇妙な感覚に襲われた。
さっきまでの俺は、現実の世界に戻ったら、すべてが元に戻ると思っていた。しかし今、アンジェラを見ていると、それはありえないと感じている。
俺たちの島での経験はとても原始的で、生々しく、リアルで、もう戻ることはない。
「父さんが言ってること、分かるよ」俺は認めた。「こいつがいなかったら、俺は生き延びれなかった」
「この子がお前を救ったのか?」
いつ目を覚ますのだろう? そして、ここで俺を見たとき、何を思うだろう?
アンジェラは、俺のことをあらゆるひどい仕打ちをしてきた、怪物のように思うだろうか? それとも、俺を違う人間として見てくれるだろうか?
この硬い皮膚の下にいる本当の俺の姿を。
「起きろよ、アンジェラ」俺は願った。「目を開けてくれ」
しかし、その目は閉じたままだった。一瞬、世界で最も愚かな考えが頭をよぎった。アンジェラを目覚めさせるには、キスをしなければならないのだろうか。なんてな、あの馬鹿げた童話じゃあるまいし。
俺は手を伸ばし、優しくアンジェラの手を握った。とても弱々しかった。今にも壊れてしまいそうだ。
俺が触れたことで、アンジェラはもぞもぞと動き、俺の心臓は跳ねた。
そしてアンジェラは目を開け、その明るい青い瞳がまっすぐ俺の目と合った。
「目が覚めたのか」俺は優しく言った。
アンジェラは混乱した様子で、周りを見回した。
「もう大丈夫だ」俺は彼女を安心させようとした。
「ここはどこ?」そう尋ねるアンジェラの声は、ひどく震えていた。
その声に、俺は何か嫌な違和感を感じた。アンジェラは怯えているようだった。
「アンジェラ、ここは病院だ。心配いらない」
彼女は目線を下にすると、自分の手が俺に握られていることに気づいた。そして俺の手から自分の手を引き抜き、胸に抱き寄せ、ベッドの上で俺から離れようと後ずさった。
「アンジェラ……?」嫌な予感がした。
しかし、アンジェラの口から次に聞こえた言葉は、俺の予想の範疇を超えていた。
「あなた……」アンジェラは深呼吸をして、自分を落ち着かせようとしてから、こう言った。「あなたは誰?」




