
「お父様の意識が戻りました」医師は深刻な顔で言った。「脳卒中を起こすと、その後24時間に心臓発作を起こす可能性が高いです。引き続き注意深く経過を観察し、検査を行っていきます」なんとも自信がなさそうな物言いだ。
「先生、ありがとうございます」ルーカスは言った。
医師はうなずき、私たちを残してその場を去った。
「どれくらいの入院生活になるのかしら」私は小声で尋ねた。「家に帰れそうには見えないわ」
「選択肢はないかもしれない」ダニーがそう言った。
「どういう意味?」私は聞き返した。
兄たちは顔を見合わせた。鼓動が速くなるのを感じた。バッドニュースに違いない。ルーカスが意を決して私の方を向いた。
「父さんを入院させる余裕はないんだ。アンジェラ」
私は面食らった。「何ですって?」
ダニーは手で髪をいじりながら、顔を引きつらせた。「金がない」
「どうして? だってレストランが……」あのレストランは私たちが子どもの頃から、父の人生の場だった。母も病気になるまではそこで働いていたし、兄たちは大学を卒業するとすぐに後を継いだ。
「ここ数年ずっと苦しかったんだ。不況のあおりを受けてね。父さんは担保融資を受けながら、何とか乗り切ろうとしたけど」ルーカスはため息をついた。疲れ切っている様子だ。
「どうして言ってくれなかったの?」私は尋ねた。「もうすぐ面接だし、仕事に就ければ私も……」
ダニーは首を横に振った。
「病院の支払いはもうすぐなんだ……」
息がつまるのを感じ、居ても立っても居られなくなった私は、兄たちを突き放した。震える足で廊下を駆け抜け、階段を下り、気がついたときには病院の前に立っていた。
夜空が頭上に迫ってきた。空を見上げたが、やはり街が明るすぎて、星は見えない。祈ろうにも、飛行機すら見えなかった。星に、いや、あんな飛行機に願いを込めるなんて、なんて滑稽だったのだろう。どうかしてた。
私は目を閉じ、深呼吸をした。私ならできる。他に選択肢はなかった。
変かもしれんが、俺は墓地が好きだ。
静かな雰囲気、丁寧に手入れされた芝生、磨き上げられた墓石は、何だか俺を安心させるのだ。金持ちでも、貧乏でも、有名人でも、何者でもなくても。誰もが同じ静寂を感じ、尊重する場所。
俺たちは皆、どうせ最後はクソみたいに死ぬ。その事実の前では皆、黙り、厳粛になり、そして何より自分のことに集中するようになる。
しかし父にはそれがあてはまらなかった。
父はすでにそこにいて、母の墓に向かい、足元にはユリの花束があった。俺は歩いて隣まで行ったが、何の反応もなかった。しばらくの間、互いがじっと物思いに耽った。
「この花をどこで手に入れたと思う?」沈黙を破ったのは父だった。
俺は地面のユリの花に目をやった。母さんが好きだった花だ。
「花屋じゃないの?」それがどうした?
「昨日、お前と公園で別れた後、親切な若い女性がくれたんだ」そう話す父の瞳は希望に満ちていた。「彼女は私の苦しみに気づき、慰めようとしてくれた。母さんの好きだったベンチで、母さんの好きだった花をくれたんだ」
「息子よ、運命を信じるか?」
「運命?」俺は鼻で笑った。「いいや。俺に起こったクソみたいな出来事は、起こるべくして起こったとでも言いたいのか? ふざけるな」
「あの子とのことがあった後、大変だったのは知っている……」
「あいつの名前を口にするな」 俺はきつく警告した。「あのクソ女のことなんか思い出したくもない」
父は眉を深くひそめたが、頷き、口を閉ざした。再び流れる沈黙に、俺は耐えきれず口を開いた。
「あのさ、もうすぐ飛行機の時間なんだ。用がないなら……」
「私もかつてはお前と同じだったよ、ザビエル」父は突然話し出した。「世の中に腹を立てていて、何にでも、誰にでも、怒りをぶつけた。あらゆるものを遠ざけて、空虚な快楽を追い求めては、空っぽな自分に虚しさを感じていた」
言葉が出てこなかった。父からそんなことを聞いたのは初めてだった。ブラッド・ナイトは天才的なCEOであり、大富豪であり、伝説のような男だ。世界中の大学で、この男の成功を研究するビジネスコースがあるほどだ。俺にとっては、父親というより、常に雲の上の存在だった。
「何が私を変えたのか、何が私を救ったのか、分かるか?」
俺は足元の墓石に目をやった。それくらいは分かる。
父は頷き、続けた。「お前の母さんだ。アメリアは私を救ってくれた。お前たち2人が光となり、私を暗闇から引きずり出してくれたんだよ」父は俺を見つめた。その顔にははっきりとした決意が浮かんでおり、俺は嫌な予感がした。「お前にも同じことを望んでいる」
俺はすぐさま警戒した。「どういう意味だ?」
「バランスをとってくれる人が必要なんだ。私にとって母さんがそうであったように。もう半分の自分を見つける必要がある」
父の言いたいことを理解した瞬間、俺は呆れかえった。「正気か?」
「それが責任というものなんだ。世間のイメージも良くなる。お前を会社から追い出したくはないんだ。私が引退するときに、お前の成長した姿を見せ、跡継ぎとしてふさわしいということを株主に示さなければいけない」
「ただ付き合えと言ってるんじゃない、ザビエル」俺に向き直ったその男の顔は、もはや父親のものではなかった。彼はブラッド・ナイト、誰にも止められない、ナイト・エンタープライズの長だ。思い通りにならないことなどなかった。「あの子と結婚しろ……そして、跡継ぎを産ませるんだ」
髪を乱雑に束ね、パジャマ姿でアイスクリームを頬張る私、を見て、エミリーは顔をしかめた。
「大丈夫?」エミリーにそう聞かれた私は、
「絶好調よ」チョコレートで口いっぱいのまま答えた。
ため息をつき、エミリーも冷凍庫からアイスクリームを取り出すと、私の隣に座ってスプーンでバニラアイスを頬張った。
「こぼしてる」エミリーに指摘された。
「もう本当に参っちゃった」私は嘆いた。「父さんが入院して、お金に困ってるの。キュリクソンの面接を受けてきたんだけど、失敗しちゃったかも……それに……」話しながら、声が震えてきた。
いろいろなことが起こりすぎた。
「失敗なんてしてないわよ」エミリーはそう言い切った。「手ごたえあったんでしょう? 自分で言ってたんじゃないの」
確かに、面接官とはかなり意気投合した。キュリクソンは素晴らしい会社で、ハーバードで学んだエンジニアの学位を活かせそうな職をついに見つけたのだ。ここ数か月はエミリーの花屋でアルバイトをしていた。
働かせてくれただけでなく、彼女は自分のアパートに私を住まわせてくれた。
彼女がいなかったら、私の人生は終わっていただろう。
「あんたは命の恩人よ、エミリー」私は話し始めた。「ここに住ませてもらえなかったら私は——」
「ヒロインぶらなくていいから」私の感謝の言葉は、エミリーにさえぎられた。「別に好きなだけいればいいのよ。ただ、あんたが本当はキュリクソンみたいなところで働けるのに、こんな花屋の床を掃除して人生を無駄にしているのは見たくないの。アンジェラ、あんたはここにいるべき人間じゃない」
ああ、エミリー。この子がいなかったら、私はどうなっていただろう。
「まあ、私は出かけるから」エミリーは立ち上がり、スプーンをシンクに放り投げ、アイスのゴミをゴミ箱に捨てた。「あまりうじうじしないことね」そう言って靴を履くと、いつの間にかいなくなっていた。
ひとりになった私はソファから立ち上がると、部屋の掃除に取りかかった。じっとしていても、余計にモヤモヤして考えすぎてしまうからだ。
シンクを磨いている最中に携帯電話が鳴った。私はソファを飛び越えて電話に飛びつき、発信者を確認した。
心臓が飛び跳ねる音が聞こえた。
深呼吸をした。
「…もしもし?」私は声が震えそうになるのを抑えて、電話に出た。
「もしもし、アンジェラ・カーソンのお電話でお間違いないでしょうか?」電話の向こうから女性の声がした。
「はい、お世話になっております」
「アンジェラ。残念ですが、今回はもう一人の応募者に採用を決めることになりました」
「…はい…」終わった。
「あなたの書類は保管しておくので、またポジションに空きが出た際には、ご連絡させていただきます」
「はい、ありがとうございます」
他に何を言えばいいのだろう。
たった数十秒の辛い会話を終え、私はベッドに倒れ込み、枕に顔を埋めた。
こみ上げてくる悔し涙を、枕に染み込ませた。病院の支払いやお金の問題だけじゃない。
でも、今の私に何ができる?
どうしたらいいのか分からないまま、私は荷物をつかんで飛び出し、病院に向かった。父に会いたい。なんとか入院期間を延ばしてもらえないか、他に選択肢がないか、先生に相談しなければ……。
あわてて通りに飛び出した勢いで、誰かにぶつかりそうになった。
「ごめんなさい」私はそうつぶやいて、さっと通り過ぎた。ルーカスとダニーに電話しなきゃ。何か考えがあるかも――。
「アンジェラ ?」優しい声が聞こえてきた。「アンジェラ・カーソンですか?」
私は立ち止まり、その男性のほうを振り返った。そこには、数日前に公園で花を渡した老紳士がいた。
「わ……、こんにちは」私はそう言ったが、正直それどころではない。「ごめんなさい、急いでるの。でも会えて嬉しいわ……」
「お父さんを助けてあげるよ」男性はそう言った。
私はその場で固まった。
「えっ?」聞き間違いだろうと思った。
「君のお父さんは今、病院にいるんだろう? しかし失礼だけど、君たち兄妹には、その入院費を払う余裕がない。違うかな?」彼は私を落ち着かせるように、ゆっくりと語りかけた。
「ええと、そうですが、どうしてそれを?」私は強く警戒した。この男は何者なの?
「突然話しすぎたかな」彼は私を安心させようと微笑んだ。「ブラッド・ナイトと申します」
「あの……」私は口ごもった。
「正直に言おう。あの日、公園での運命的な出会いの後、君のことを調べさせてもらったよ。勝手なことをしてすまない。でもお互いのためなんだ、アンジェラ」
めまいがした。
「全て私が負担しよう。お父さんの面倒は私が見る。ただひとつだけ、君に頼みがあるんだ」 その声はとても優しかったが、隠しきれない強い意志がにじんでいた。絶対に逃さないというように、その瞳はじっと、私を見つめた。
「私の息子と結婚してくれないか」
「はあ!?」私は咄嗟にブラッドから離れた。「何の冗談なの?」叫んで助けを呼ぶ? 走って逃げる? 天才と変人は紙一重っていうけど、こういうこと?
彼は私を見つめながら、首を振り、続けた。「本気なんだ。私が今おかしなことを言っているのは分かってるし、不愉快な気持ちにさせて申し訳ない。君が願うなら私は去ろう。でも、どうか最後まで聞いてくれないか。嘘偽りはないと約束する」
私はどうしたらいいのかわからず、尻込みした。見知らぬ男が近づいてきて、自分の息子と結婚してくれと言われたら、普通なら一目散に逃げ出すだろう。でもブラッドには、信じたいと思わせる何かがあった……それほどまでに真剣で誠実な眼差しだったのだ。
そして、もし彼の言っていることが本当なら……もし本当に父を助けてくれるなら……。
うん、私に他の選択肢はない。
私は深くうなずき、続けて話すよう合図した。
「ありがとう」 ブラッドは一息ついた。ひどく安心しているようだ。「協力関係になろう」彼は微笑み、その目はしわの中に沈んでいった。「息子と結婚したら、君のお父さんにはお金で払えるあらゆる万全の治療を約束しよう。それに君は息子にもう会ってるんだ」
私は目を大きく見開いた。「会ってる?」
「公園でね」ブラッドは言った。「君がぶつかり、落としたユリの花束を拾った男がいただろう」
彼を知らない人はいないだろう。もちろん私も知っている。有名人で、大金持ちで、死ぬほどゴージャス。ここ数か月、この男に関する見出しや記事を目にすることは何度もあった。
セックス。
ドラッグ。
ギャンブル。
問題児だった。
背筋の震えを感じたが、それが恐怖からなのか興奮からなのかは分からなかった。
「でも、どうして私なんです? 私より美人でお似合いの女の子なんて、いくらでもいるでしょう。私はふさわしくないわ」こんなチャンス、喉から手が出るほど欲しい女の子たちは多いだろう。
「アンジェラ、君は純粋な心の持ち主だ。自分では気づいていないだろうが、君みたいな子は滅多にいないよ。私は普通の父親として、息子のためにできることをしてやりたいんだ。君ならあいつを救うことができる。私の直感は当たるんだ」
私はまばたきをした。
「でも、結婚はただの紙切れ一枚の話じゃないでしょう」私は異を唱えた。「契約にサインしたからといって、恋に落ちれるものではないですし」
「それはそうかもしれん。しかし、愛とは忍耐なんだ」
「私があなたの息子と結婚した翌日に離婚したらどうするんです?」ひねくれた問いかけなのは分かっていたが、この極端な仮定も、聞かずにはいられなかった。
ブラッドは嫌な顔ひとつすることなく近づいてきて、私の手を取った。温かく、不思議と心地よい感覚に包まれた。「アンジェラ、君はそんなことしないよ。言っただろう、君の心は純粋だ。でも、もし何か保険が必要なら、お父さんのことを考えて」
父の顔が頭に浮かんだ。かつての明るく生き生きとしたものではなく、病院のベッドで最後に見たときの顔だった。とても弱々しく、今にも壊れてしまいそうな……。
「医療費は大変な話だ。治療費、リハビリ、24時間体制のケア。全部お金がかかるんだよ、お嬢さん。もし君が約束してくれるなら、私も責任は果たすよ」
いろいろな考えが頭を巡った。何か別の方法はないのだろうか。
「たぶん、もうすぐ仕事が見つかるんです。ダブルワークしながらなんとか……」
「アンジェラ」ブラッドは私の言葉を制した。「入院費がいくらかかるか知っているか? 一泊700ドルだ。定期的な血液検査は250ドル。万が一にでも電気ショックを使わなければいけないような事態になれば、さらに1,500ドル」
私は目をつぶった。
「やめてください。お願いですから。少し考える時間をください」私は混乱した頭の中を整理しようとした。
父さんのこと。
レストランのこと。
兄さんたちのこと。
長年の借金。
愛しているわけでもない、ましてや会ったこともない男と、結婚だなんて。
「どうして私を助けるのです?」私は尋ねた。
「あの午後、君が私のところに来たとき」ブラッドは話し始めた。「君は私の空への祈りに応えてくれた。私が必要としていた力をくれたんだ。だから今、私は君の祈りに答えるためにここに来た。君に力を与えるためにここに来た。それが私のできることだから」
呼吸が浅くなる中、私は考えた。
「アンジェラ?」ブラッドは優しく言った。「アンジェラ、必ずうまくいくと、私は信じているんだ。必ず、必ずだよ」
私は深く息を吸った。今から口を出ようとする言葉の重さに押しつぶされそうになった。
「ええ」私は口を開いた。「分かりました」
もはや自暴自棄になっていたのかもしれない。
「あなたの息子と結婚します」
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