
まさかアンジェラがOKするとは思っていなかった。自他ともに認める成功者であり、巨頭として扱われることも慣れている私ですら、一瞬言葉に詰まった。私は彼女から、果てしない純粋さを感じていた。
この女性は、全く違う人生を歩む契約に同意し、私の手を取った。父親の医療費を肩代わりするとはいえ、私はなんだか彼女に負い目を感じていた。
それから数日経ち、今日は契約の詳細を話し合う日だ。
ザ・プラザ(NYの高級ホテル)でのお茶の誘いを、彼女は快く受け入れてくれた。どこの広場(プラザ)?と聞いてきたのには、思わず笑ってしまったが。何て可愛らしい子なんだろう。
私はいつも通り、豪華な椅子が両サイドに置かれた角のテーブルに座った。ここでお茶をする知り合いは多いが、このテーブルはちょうど花や装飾に隠れる形になっており、人目につかないのだ。
ちょうどメールをチェックしていたそのとき、店全体の雰囲気が変わったのを感じた。まるでサウナに一陣の風が吹いたかのように、その場にいた全員の目が覚めた。
顔を上げると、緊張した面持ちで店に入ってきたあの子がいた。私は思わず微笑んだ。直感が確信に変わった。
スーツ?
ゴージャスなドレス?
エミリーにアドバイスをもらおうかとも思ったが、その場合、誰と会うのか、なぜ会うのかを説明しなければならないだろう。それはそれでまた別の問題が出てくる気がして、やめた。結局私は、ジーンズとブラウスというごく普通の服装に身を包み、お気に入りの黒いブーツを履いて玄関を出た。
ザ・プラザとは広場のプラザではなく、プラザホテルだということはグーグルが教えてくれた。金を持ったビジネス客とセレブ御用達の場所のようだ。
アフタヌーンティーというのは、ただの午後の紅茶ではない。事件だ。私は電車の中でそのことを知り、自分で選んだ色あせたデニムに目を落とした。場違いすぎる。不安は刻一刻と増していった。
そもそも中に入れてもらえるのかしら?
ドアをくぐるとすぐに、コンシェルジュの男がデスクの後ろから飛び出してきて、手を上げて私を呼び止めた。
「お客様?」
「は、はい」私はもごもごと言った。「お茶をしに」
男は眉を少し上げただけだった。
「ミスター・ナイトと約束をしてて」自分でも信じられないセリフだ。しかし私がその名を言った瞬間、対応は一変した。
「お待ちしておりました」なんとも威圧的なフランス訛りで、男はそう言った。「こちらへ」
彼が店の扉を開けた瞬間、私はハッと息をのんだ。派手でありながら、信じられないほど繊細にデザインされたその内装は、自分が足を踏み入れるだけで台無しになるんじゃないかと思った。
住む世界が違う。私はそう異星人のように感じながら、テーブルを見回した。そして、店の一番奥の隅の席でブラッドが立ち上がり、私に手を振っているのが見えた。私の隣にいたコンシェルジュは、私を見てやはり眉をひそめた。
「ありがとうございます」テーブルを縫うように通り抜け、私は声を落ち着けていった。テレビで見たことのある人々がたくさんいる。なんてこった。
「座って」目の前まで歩いていくと、ブラッドはそう言った。椅子に座った瞬間、まるで雲の中に沈んだような気分になった。「来てくれてありがとう」
「お招きいただきありがとうございます」私はガチガチに緊張しながらそう言った。「信じられないほど素晴らしいところですね」
「ここが?」とブラッドは周りを見回し、笑顔を浮かべた。「何てことない。すぐに慣れるよ」
「そうは思いません」
「信じてくれ。華やかさや煌びやかさはいつか消える。一緒に飲みたいと思える大切な人がいないことに気づくまでに、買えるシャンパンの数はそう多くはない。でも、だからこそあなたはここにいるんだ」
「ティータイムにシャンパンを飲むの?」私は戸惑いながら尋ねた。ちょうどそのとき、蝶ネクタイを締めたウェイターがやってきた。モデルのようなルックスだ。彼はブラッドを見ていった。
「ミスター・ナイト、いつものでよろしいですか?
「アンジェラ。君は知らないだろうが、私の息子ザビエルは、様々なことを経験してきた。世間で思われているものとは違い、私にとって父親をするということは、簡単なことではない。多くのプレッシャーがあるんだ。そして閉じ込められたプレッシャーは……」
「爆発する」私はそう締めくくった。言ってから、顔が赤くなるのを感じた。ブラッド・ナイトの邪魔をしてしまっただろうか?
しかし、彼は頷いてくれた。
「その通り。ザビエルは近頃、ずっとふらふら出歩いてばかりだ。君にはあいつを落ち着かせる力があると思っている。あいつに大事なことを思い出させてほしい。それが私の提案だ」
「私はあなたの息子と結婚し、あなたは私の父の健康と……医療費を保証する」
「必要なもの全てを約束する」はっきりと言い切るその口ぶりは、彼を信頼するに十分だった。「この契約のことを、絶対に口外しないことが条件だ。家族にも、友人にも、息子ザビエルにもだ」
ブラッドは数ページにわたる書類を私に手渡した。少なくとも30の条項がある契約書だった。そのとき私の脳裏をよぎったのは、病院のベッドで見た、青白く弱々しい父の顔—。
私の心は、やめろ、考え直せと言っていたが、手は心に反して勝手に動いた。私はブラッドから高そうなペンを受け取ると、契約書にサインした。
手の震えは落ち着かず、ウェイターが私の前に置いた湯気の立つ紅茶を一口飲んだ。
プラザでのミーティングから数日後、ブラッドから連絡が来た。私は前撮りというものを初めて知った。もちろん、結婚式で新郎新婦が写真を撮ることは知っていたが、その数週間前に写真を撮るだけの日があるなんて知らなかった。
ブラッドから、カジュアルな服装でと聞いていたから、言われた通りにしたのに。コロンバスサークル駅から出るとすぐに、私は公園の隅に立っているブラッドに気づいた。背後には、映画撮影にでも使うかのようなトレーラーがあったのだ。ブラッドは興奮した面持ちで私に手を振っている。
「アンジェラ! こっちこっち!」
「今行きます!」声を張ったつもりがあまり通らず、私はぎこちない声量で答えた。
私は道路を横切り、ブラッドのところに着くころに、彼はトレーラーのドアを開けた。中は者の多さでごちゃごちゃとしていた。
「ヘアスタイリスト、メイクアップアーティスト、スタイリストを用意した」ブラッドは手を叩きながらそう言った「ごゆっくり。撮影はマジックアワーに始める」
「マジックアワー?」何のことか分からず、私は尋ねた。
「16時半から18時半の間のことだよ」と、ブラッドは小声で教えてくれた。「まあ、業界用語みたいなもんだ」
私が返事をする前に、トレーラーの中にいたスタイリッシュな女性のうちの一人が私を中に引き入れ、後ろ手にドアを閉めた。
鏡に映った自分の顔を見て、信じられなかった。複雑に編み込まれた髪は頭のてっぺんで盛られ、それ自体髪飾りのようで、顔周りのおくれ毛が抜け感を演出している。派手ではあるが、リラックス感もある。とにかく、これが私だとは思えない。
メイクアップアーティストのスカイは、1時間以上かけて私の顔を仕上げた。目にはダークブラウンのアイラインを柔らかく引き、頬に乗せたチークはバラのように映えた。時々マスカラを塗る以外ほとんど化粧をしない私にとっては、お姫様ごっこをしているような気分になった。
「準備はいいかー?」ノックの音がして、ブラッドの声が聞こえた。しかし、私を一目見て、その声は途中で途切れた。
私はひざ丈の白いドレスを着て、8センチのヒールを履き、そわそわしていた。歩いているだけで今にも転びそうだったが、周りは誰も気にかけてくれていないようだ。ブラッドは私を見つめた。
「美しい」私は、ブラッドの言葉と自分の父の姿とを重ね合わせ、思わず笑みをこぼした。
ブラッドは私の手を取り、私の足もとを確かめながら、外に連れ出してくれた。私は何度か転びそうになったが、公園で撮影のセットを見て、靴のことはすっかり気にならなくなった。
木々にはライトが張られ、芝生には巨大なピクニックブランケットが敷かれ、テーブルには豪華な食事とワインボトルが並んでいた。まるでセレブリティ番組のパーティー会場のようだ。
「すごい……」私はブラッドに向かってそう言った。
「結婚式を見てからそう言ってくれ」ブラッドはウインクをしながらそう言った。信じられないようなことばかりだ。私はもう一度周りを見回し、欠けているものに気がついた。
「ザビエルはどこ?」
ブラッドがたじろいだのが分かった。初めてこの人の弱気な表情を見た。しかし彼が言葉を発しようとしたそのとき、その視線は私の背後に移り、そしてその顔には満面の笑みが浮かんだ。
「お嬢さん、ちょっと失礼」ブラッドはそう言うと、さっと私の横を通り過ぎ、息子を抱きしめようとした。
そのとき、私の目に入ったのが、この男、ザビエル・ナイトだった。
あの日、セントラルパークでばったり会ったのは、本当にこの人だったのかしら。男前なのは知っていたが、帽子もサングラスもつけていない彼の姿は……。
ザビエルはこの場の誰よりも背が高く、完璧に仕立てられたスーツは、その筋肉質な身体を美しく引き立てた。そして氷のように青い目が、私の心にまっすぐ突き刺さった。
息の仕方を忘れるところだった。
ブラッドは私のところまでザビエルを連れて来た。彼は「やあ」と言って私の頬に優しくキスをした。
私は手汗が出てくるのを感じながら、地面を見つめて、「こんにちは」と返した。
撮影自体は15分ほどで終わった。私たちは微笑み、互いの目を見つめ合った。とにかく、ひたすら、そうするしかなかった。
ザビエルは、まるで太陽のように眩しく、直視してられないほどの強烈なオーラを放っていた。でも、目をそらしてしまうと、そのたびにカメラマンに「目を見て!」と怒られた。一流のカメラマンに怒られるのは、婚約者と目を合わせること以上に恥ずかしかった。
「この写真は『タイムズ』紙を感動させるだろうなあ」カメラマンは興奮していた。「こんなに魅力的なカップルはジェニファーとブラッド以来だ」
その言葉を聞きながらも、私の話をしているのだとはどうしても思えなかった。気恥ずかしく、頬が熟れたトマトみたいになっていたと思う。
数メートル先でブラッドがカメラマンと握手しているのが見えた。私と目が合うとブラッドは微笑み、自分の息子が私に向かって行くのを見て、さらに笑った。私は目の前にやって来たザビエルの方を向いた。
「会えて嬉しいわ」私はとりあえずそう言った。何か言わなければと思ったが、何から話せばいいのか分からなかったからだ。ザビエルは私に向けた笑顔に、私は違和感を抱いた。不気味な微笑み。ザビエルってこんな表情をするのかしら。
私は地面を見て、彼が何か言うのを待った。しかしザビエルは私の耳元でこう言った。
「分かっているからな」彼の言葉は耳に突き刺さった。「可愛い顔や照れた表情で、俺を騙せると思うなよ。お前の目的は分かってるんだ。化粧やドレスで着飾っても無駄だ。俺には分かる」
彼の唇が私の頬をかすめ、さらに汚い言葉を囁いた。「金目当てのクソビッチ。最低だな」
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