
昨夜のことを恥じながら、レイラが目覚める前にスイートルームからそっと出て行く。説明は必要だと分かっているが、気が進まない。
どうしてあのような反応を示したのか自分でも理解できない。
ディナーでレジナルドが打ち明けた意外な事実にはまだ衝撃を受けていて、彼の言うことが本当かどうか確かめたくて仕方がない。
ヘレンの家族が危険なクロスと関わっている可能性があるとの彼の言及が事実なら、彼らが何をするかは予測もできない。
彼らは権力を持ち、広範なつながりがあり、計り知れないほどの富を誇っている。世界中にビジネスの痕跡を残している。
彼らがなぜ危険な存在に関心を持つのだろう。
権力者たちは現実のまたは想像上の脅威から自身を守るために、時間も金も惜しまない。それが彼らの興味の1つであるかもしれない。
自分たちの安全を守るために危険を抱え込むことは、珍しいことではない。
多くの者がそうしている。
俺はその手の知識からは距離を置くようにしているが、争いごとに関わる者として、人々が自衛のためにどれほど狂気じみた行動に出るかを知ることからは逃れられない。
俺の知る限り、アリストファネス家には現在大きな争いはなく、ありふれた対立があるだけだ。
彼らがセキュリティを強化するに至った理由があるのか、俺にはわからない。それが不安を掻き立てる。
彼らがヘレンのことを知りたがっているのは想像に難くないし、すでに知っていて復讐を望んでいる可能性もある。
彼らは俺を知っている。宮殿の顧問である俺に対して何かをしでかすとは考えにくい。
そんな愚かなことをするはずがない。
ヘレンの家族は俺の能力を理解している。王家ができることも知っている。もし彼らが復讐に取りつかれていたとしても、それがもたらすのはさらなる流血だけだろう。
ヘレンに起きたことを知っているライカンなら、誰でも理解できるはずだ。『エラスタイ』の間に割り込むことはできない。番(つが)いとの絆は我々の種にとって神聖なものだからだ。
だが、アリストファネス家が、ヘレンがしようとしていたことを知っているとは限らない。
俺が彼らともっと親しくしておけば、少なくとも、この問題をよりコントロールできたかもしれないのに。
だが、こんな考えに没頭するのは避けるべきだ。
今回の状況全体がまだ俺を悩ませている。レイラを1度失望させたので、もう失敗はできない。
しかし、レジナルドが昨夜俺に言っていた全てをレイラに伝えるつもりはない。
彼女を心配させたくないし、ヘレンとの問題が今後も影響する可能性があることを彼女には知ってもらいたくない。
ルイとレジナルドから急に立ち去ったことを後悔している。
レジナルドを昔から信用していなかった。なぜ今、彼を信用できると思えるのだろうか?
彼がヘレンの家族や、彼女がアリスター・ペンブロークと関わっていたことを暗示しているのなら、彼が俺に伝えていないことは何だ?
もっと何かを知っていてそれを隠しているのではないか?
ヘレンの家族が何をしているのか、どこにいるのか、最近何をしているのかを調べるためにいくつかの電話をかけることにする。
以前仕事をしたことがあり、友好的な関係を築いているギリシャ大使スピロスに連絡を取る。もちろん、疑われないように細心の注意を払いながら。
俺は単に、世界中のライカン集団と連絡を取る通常の業務であると彼に伝え、宮殿からの敬意を表する。
彼は有益な情報を何も話さず、自慢の馬の話ばかり続ける。そこで、王室の緊急会合があると告げて、そっと電話を切る。
もし必要があれば、セレナに彼から情報を引き出してもらうことも考えている。彼はいつも自分の彼女と馬以外に興味がない。
俺は選択肢を検討する。まだ宮殿内でこの問題を公にするべきではないだろう。確たる証拠がない。
ただの夕食の席で聞いた話から、ただちに懸念を提起するのは、行き過ぎた心配に見られかねない。もし本格的な調査を始めるなら、まず確かな裏付けが必要だ。
そのためには、レジナルドを巻き込む必要がある。
そう考えただけで、ため息が出る。
アリスター・ペンブロークを見つけ、誰かに尾行させることにしよう。それが新たな情報を得るための最良の手段とは思えないが、一歩を踏み出すことは重要だ。
アリスターのことは決して好きではなかった。だがそれは、やつとヘレンの関係に対する個人的な嫌悪だと思っていた。やつはヘレンにやたらと親切に振る舞い、ヘレンもいつも奴に気のあるそぶりを見せていた。
嫉妬と言われれば、誤解されかねない。だが、特定の地位にある者として、自分のパートナーが他の男性といちゃつくことを黙認するわけにはいかない。
今になって思えば、もしヘレンを本当に愛していたなら、俺が彼女に与えていた自由は許されざるものだった。
レジナルドの『アリスターとヘレンが密会していた』と言う話しが本当だったとしても、驚きはしない。ヘレンは性的な拒絶を受け入れることができない女性だった。俺が拒否したことで、彼女は目立たない方法で自らの欲求を満たす道を見つけたはずだ。
ヘレンとアリスター・ペンブロークの関係は俺が原因だったのかと思うと、胃が痛む。
それでも、そのことに怒りを感じるとは思ってもみなかった。我々の関係は利害の一致から成り立っており、ヘレンへの感情など何もなかった。彼女は好きに振る舞う権利があった。
もしやつが何か怪しい動きをしているなら、通信をハッキングしてやる。一体どんな下品な事が見つかるか、想像もつかないが。
だが、パーティで耳にした噂話だけで、やつに厳しい対応をするのは、行き過ぎのような気もする。
個人的な嫌悪感を、そんな行動に出る理由にしてはならない。
携帯を机の上に置き、ため息をつきながら頭を手で抱える。本当に緊張している。
心の警報が鳴り響くが、それがレジナルドの言葉のせいなのか、それともヘレンとの一件全てに対する反応なのか、判断がつかない。
ほとんど正気を失いかけている。このままではいけない。秩序と制御を取り戻さなければ。
昨夜以来、ルイとは話していない。レストランを抜け出したことで、彼はきっと怒っているだろう。
ルイの期待を裏切り、美味しいワインと食事の楽しいひと時を台無しにした。彼には両方とも許しがたい違反行為だ。
ルイの件にどう対応するか考え始めるかと思ったところで、王子からのメールが届いた。
急いでいつもの会議室に向かう。
カスピアン王子とは今日も話し合いが予定されていたのに、今すぐ会いたがっているというのは何か重要なことに違いない。
「おはようございます、カスピアン王子」
「おはよう。忙しい所、急に申し訳ないね」
「いえ、問題ありませんよ」
「ギデオン、ちょっとデリケートな問題を話し合わなければならない。不快に思わなければいいのだが」
「なんでしょう、気になりますね」
「セイレーンに関することだ」
「なんとも言えぬ話題ですね」
「本当にな」
王子は椅子に深くもたれながら、ため息をつく。
「セイレーン宮殿は、君がヘレンからレイラを救う過程で殺したトリトンのことで今も激怒している」
「なるほど」
まさか、死んだ共謀者のことでセイレーンたちが大騒ぎするとは、厄介だな。
「どうやら、彼は下級の王族だったようだ。彼の家族は憤慨していて、立場的にライカンとのセイレーン間の外交関係を難しくする可能性がある」
「王子にご迷惑をおかけして、申し訳ありません。決して意図したわけではありませんでした」
「謝る必要はないよ、ギデオン。誰もが君の立場になったら同じことをしただろう。そうは言っても、セイレーンをなだめるためには君の助けが必要だ」
「なんでもお申し付けください。既にどのように対処すべきか決められましたか?」
「ある程度はね。まずはセイレーン宮殿を訪れる必要があるだろう」
「もちろん、喜んで訪問させていただきます」
心の中ではセイレーン宮殿への訪問は望んでいない。これほど嫌なことはない。だが、王子にそんなことは言えない。
間接的であれ、俺が原因で問題を起こしたのは事実だし、それを解決するのは俺の責任だ。
「提案だが、別の外交官と数名の護衛を連れて、価値ある贈り物を持参するのはどうだろうか」
「彼らはマーカスの死に関してどれほど情報を持っているのですか?」
「それを探り出すのが君の仕事だよ」
「なるほど」
「ギデオン、こんな話を持ちかけて申し訳ない。君にとっては不愉快な話題だろう」
「仕事の一部ですから」
「クロスが原因とされる死者がまた出て、目撃情報も増えているんだ」
「今、そればかりが話題になっているようですね」
「ああ、問題になっている。ちょうど今朝も、不審な状況下で多数の人が死亡したという噂が届いた。ヴァンパイア・セイレーンに関連している可能性がある」
「それは聞いていませんでした」
「状況は厄介だ。解決するにはセイレーンを味方につける必要がある。彼らは我々が知らないことを間違いなく知っている」
「そうですね」
「君に2つの重要な任務を託す。まず、セイレーンたちが持つ知識と、彼らが我々に提供できる情報を探り出すこと。そしてもう1つは、マーカスの件を解決し、正しい状態に戻すことだ」
マーカスという名前を聞くと血が沸騰する。これは俺の仕事で、避けられないことはわかっている。だが、まだ怒りが収まらない。
一体なぜ、その下級王族のセイレーンがヘレンに協力し、俺の『エラスタイ』を罠にはめる手伝いをしていたんだ? ヘレンは彼女の汚れ仕事をさせるために、もう少し重要性の低い誰かを見つけることはできなかったのだろうか?
この件については慎重に調査し、彼らが何を考え、マーカスがなぜ殺されたと思っているのかを突き止めなければならない。
「すぐに準備を始めます。話せる情報筋はありますか?」
「オフィスに連絡を取らせるよ。同行者を指名するかい?」
「セレナでしたら仕事がしやすいです」
「わかった、彼女に同行させよう。事務局で、説明書と戦略文書をまとめてもらい、数日以内に計画を練るための会議を設定する」
俺はイライラしながら部屋を出る。またもや面倒な問題だ。
普段は俺が他人の問題を解決している。だが今は、俺の問題を解決するために、宮殿が介入している。
こんなことになるとは思わなかった。クソみたいな朝だ!
親友との間に、これまでにないほどの溝ができてしまった。
もう思い出せないくらい長い間、ルイと喧嘩などしたことがないから、どうやって解決していいかもわからない。
何十年もの間、仕事という厳格で公的な環境以外では、誰とも深刻な意見の相違を感じたことがない。
個人的な問題を解決することと、優れた外交官であることはイコールではないのだと実感する。レイラとこの件について話し合うべきだ。
だが、俺がはじめから隠し事をしてきたことに怒っているのではないかと心配だ。
そして、最悪なのは、レジナルドが何をもっと知っているかを尋ねなければならないかもしれないことだ。