
ランから3日が経過した。高揚感が冷めてくると同時に、感情は激しく揺れ動き始める。
あるときはランのスリルを思い出して陶酔するが、またあるときはもう二度とあんな気分は味わえないと思うと沈み込んでしまう。
エイデンもそれを感じていた。彼はここ数日、よそよそしくなり、仕事に没頭していた。セレーネは、私の人生で最高の体験の後に、何とも言えない不安感が襲ってくることまで教えてくれなかった。
私は、エイデンの好きなデザート、アップルパイを焼くことにした。
ジョセリンによると、エイデンは大の甘党らしい。彼に対する武器としても使えそうだが、今回は、いいことに使うつもりだ。
鼻歌を歌って踊りながら準備を始めた。小麦粉がキッチンのいたるところにこぼれている。森の生き物たちが大合唱を始めて、私を絹で包み始めるなてことは期待していなけれど、そうなりそうなくらい、いい気分だった。
オーブンのタイマーが鳴り、アップルパイができたことを知らせた。天国のような香り。もし自分に永久に消えない香りを選ぶとしたら、きっとこれにするだろう。私はワクワクしながらエイデンにいつ帰ってくるかチャットを送った。彼に会えるのが待ちきれない。
せっかくの熱意が一瞬にして体から抜けてしまった。急に腹が立ってきたのだ。まるで従順な主婦のように、お菓子作りに力を注いでいた自分に。私は男のためにパンを焼く以外にすることがなかったのだろうか? 彼が認めてくれるのを待つしかなかったのだろうか?
でも、彼からのメールに自分が動揺したことにも腹が立った。彼の不在がこんなにも私に影響を及ぼしていることに。
以前の私は、できるかぎり彼と距離を置きたいと願っていた。地球の反対側にいたいと思ったこともある。でも今、私は彼が1日いないことに耐えられなかった。
それが嫌だった。
彼のにおいだけで、私は直感的に「彼が恋しい」と感じた。オオカミとして親しくなって以来、私の中のオオカミは常に彼の近くにいたいという衝動に駆られていた。彼は私たちをつなぐ何かを放っているようで、私はいつもそのつながりに縛られていたかった。
涙があふれた。体を震わせながら、マークに手を当てた。
大げさだとわかっていた。愚かな10代の少女のように感じた。でも気にしなかった。ただ、彼がここにいて、抱きしめてくれて、キスしてくれて、私たちの間はすべてうまくいくと言ってほしかった。
でも、私はひとりぼっちだった。
携帯電話をテーブルの上に戻し、「クソ」ため息をついた。
シエナにこんなことをするのは嫌だった。この3日間、彼女とはほとんど会っていない。まるでパックハウスに住んでいるも同然だったからだ。ミレニアムのアルファが我々のクリスマス舞踏会に出席するというサプライズ発表以来、すべてが混乱していた。
そしてすべてが混乱する中、俺は残業をしていた。
一方では、私たちのささやかな舞踏会に、そのような一流のゲストが出席してくださることは光栄なことだった。ミレニアムのアルファは、あらゆるものの皇帝だった。彼は誰もが尊敬する権力の象徴であり、彼の出席で私たちを飾ることは、二度とないかもしれない名誉だった。
しかし、それは疑わしいことでもあった。ミレニアムのアルファが、なぜこのパックのクリスマス舞踏会に、しかもこんな急に来ることになったのだろう? 年に一度のお祭りに興味があっただけなのか、私たちのパックを訪れたかっただけなのか、それともそれ以上の動機があったのか。
まったく分からない。だが、舞踏会が終わるまでは五感を研ぎ澄まし、万が一の事態に備えるつもりだった。
舞踏会当日も、それまでの数日間も、警備を10倍に強化するようすでに命じてある。世界最強の男、それがミレニアムのアルファだ。そして先日の侵入事件で、我々のシステムに欠陥があることは明らかだった。
チャンスを逃すわけにはいかなかった。
警備の強化を命じたとき、一部のメンバーは俺が偏執狂であるかのように見ていた。だが俺は、必要な防衛対策は準備しておくつもりだった。たとえすべてが計画どおりに進んだとしても、用心するに越したことはない。
俺は自分の群れに全幅の信頼を寄せていた。命令に従い、結果を出す彼らの能力に。しかし最近、彼らが俺に同じような信頼を寄せているかどうか疑問に思っていた。
俺が何かを命じるたびに、彼らが互いに目を合わせていることに気づいているし、ときどき私の周りでささやく声も聞こえてくる。
彼らは俺に逆らったわけでも、俺を軽んじているわけでもない。それであれば俺は受け入れられなかっただろう。彼らを罰して、すぐに交代させたはずだ。俺はアルファ、リーダーなのだから。
彼らは俺のことを心配してくれている。彼らは自分たちのアルファのために最善を尽くそうとしていたのに、俺を手助けする方法が分からなかっただけだ。
それはいつも、伴侶を見つけることに帰結した。それは明らかだった。視線も、ささやき声も......私がすでに交配していれば、陰口をたたかれることもなかったはずだ。
だが、彼らが心配するのは正しかったのかもしれない。なにしろ一分たりともシエナのことを忘れられないのだ。パックのこと、クリスマス舞踏会やミレニアムのアルファの来訪のことに集中すべき時に、チャットのことが気になってしかたない。
俺は役員室のテーブルに向き直った。ジョシュは書類に目を通している。法的な手続きと署名を済ませることにしていたが、ジェレミーはまだ来ていない。
「ジョシュ、書類のことは後回しでいい。パック会議を開くぞ。話し合うことがある」顔をあげたジョシュがうなずいた。
ジョシュは部屋の電話機に向かい、ボタンを押した「役員は会議室へ集合。役員は会議室へ集合。アルファの命令だ」
何度、上掛けを頭からかぶろうとも、その行為は私を慰めるものではなかった。孤独感が増すだけだった。
誰かと話したい。この分離不安を理解してくれる人と。いつもならその相手はミシェルなのだが、ミアの交配式のドレスを買いに行って以来、話をしていなかった。
数分間、携帯電話をいじり、ミシェルとチャットをする勇気を出そうとした。私の中のオオカミが頭の中で宙返りをしていた。
私はふと手を止め、スクリーンを見つめた。1分経ち、2分経った。何事もなかったような、喧嘩なんかしてないよね、というようなふりはできないとわかっていた。今すぐ謝らなければ、彼女は応えてくれないだろうと確信していた。
それ以外に、どうやって友人を取り戻せばいいのだろう?
深呼吸をして、返信を待った。まだ何も返ってこない。ついに諦めることにした。どうせ失うものは何もないのだ。
私はベッドに携帯電話を落とし、目の上まで毛布を引っ張った。私はすべてを打ち明けたけれど、彼女は返事をしないだろうと思っていた。彼女が本当に、本当に私を必要としていたとき、私は彼女のそばにいなかったから。
私は自己中心的で、彼女が私を必要としていることにさえ気づかなかった。
だから、彼女がそばにいてくれなくても、驚いたり、自分を責めたりすることは許されないんだ。そう自分に言い聞かせていると、携帯電話が振動した。心臓が飛び出しそうになった。携帯電話を手に取り、裏返すと、点灯した画面が見えた。
ジェットコースターに乗って傾斜したレールを一気に下った気分だった。私の中に湧き上がっていた希望は、ただ...…弾けた。風船のように。
彼女を責めることはできないとわかっていた。自分のことだってそう。それでも、彼女を突き放したのは自分だったことに気づいたことで、さらに孤独が増した。
私の周りの人たちは皆、自分の居場所を必要としているようだった。私のいない場所に。
私は、使っていない画材や半完成品の絵が埃をかぶっている隅に目をやった。少なくとも画材は私のためにそこにある。私はベッドから起き上がり、新しいキャンバスを張り、イーゼルに置いた。
私の中で渦巻いているこの感情は、いっそ有効に使ったほうがいい。新しい作品を描き始めるのは久しぶりだった。
何が起こるか見当もつかなかったが、少なくとも絵を描くことで、今の嫌な気分を一時的に紛らわすことはできるだろう。
私は、今の気分にぴったりな黒から始めた。波打つような長い筆のストローク。
次になめらかな白。ソフトでデリケート。
紫。紫が必要だ。二つの円。鋭い瞳孔。
最後に、月明かりに照らされた細い柳のようなフレーム。
私は一歩下がった。私は女を描いた。美しくも悲しそうな女。妙に見覚えがある。なぜ彼女はこんなにも心に残るのだろう? ふと気づき、思わず息をのんだ。
森にいた不思議な女性だ。
忘れかけていたのに、なぜ今になってキャンバスの中から私を見つめているのだろう? 彼女は実在するのだろうか?も しかしたら、私の心はある種のつながりを求めるあまり、幻覚を捏造し、それを現実のものとして見せていたのかもしれない。
しかし、私はそれ以上によく知っていた。彼女は本物だった。
私は彼女を感じることができた…... 彼女の肉体ではなく、彼女のエネルギーを。彼女には独特の何かがあった。今まで感じたことのない何かが。
俺はパックのメンバーが座っている役員室のテーブルに飛び乗った。一人一人の目を見て、自分のドミナンスを示しながら、歩き回る。
「みんな、聞いてくれ。今後、この近辺の状況は変わっていくだろう。パックが団結し、どんな脅威も突破できない強さを保持していく必要がある。わかるか?」
メンバーは、厳粛な面持ちで頷き返している。「俺は常にこのパックには全神経を集中している。だが、俺の決断を信用しないのであれば、我々全員がトラブルに巻き込まれることになる。俺のリーダーシップが服従に値しないと感じる者がいれば」俺はドアを指差した。「今すぐ出て行け」
俺は1人ずつ顔を見ながら、息をついた。誰も微動だにしない。そこで続けた。「分裂したパックは弱い。弱ければ、無断侵入事件のようなことがまた起こるだろう。だがその可能性はない。いいか? ミレニアムのアルファが来るんだ。彼を守れなければ、俺たちはパックとは言えない」俺は吠え声をあげた。
ジョシュの席まで歩み寄り、しゃがむように身を低くすると、彼の目を見て言った。「ジョシュ、俺のベータよ。お前に問いたい。お前は全身全霊でお前のアルファに忠誠を誓うか? 何も疑うことなく、俺の命令に従う気があるかどうかということだ」
ジョシュは表情を変えないようにしながら、部屋を見回した。
「何を見てるんだ? 俺はここにいるんだぞ」
「はい、俺のアルファ。私はあなたを群れのリーダーとして全面的に信頼しています。私はあなたに従います」
「何も疑うことなく?」
「そうです」
「他の者たちはどうだ?」私は立ち上がり、テーブルを見回しながら尋ねた。
「もちろんです、私のアルファ!」彼らは叫んだ。
「最強のパックはどこのパックだ?」俺はテーブルを踏みつけながら叫んだ。
「イーストコースト・パック!」彼らは脚を踏みならしながら言った。
「もっと大きな声で!」
「イーストコースト・パック!」
パックはまるで戦士のようにうなり、私はここ数か月感じたことのない自尊心の高まりを感じた。ここは俺たちの家だ。俺たちが命をかけて守る場所だ。
そのとき携帯電話が鳴ったので取り出した。まだアドレナリンは吹き出たままだ。
そんなことはさせない。
「ジョシュ、ベータとして、舞踏会の警備を任せたい。やってくれるか?」
「もちろん。俺にお任せを、アルファ」中心を疑うような質問をしたせいか、昇進は期待していなかったようだ。
「不審者の不法侵入の際、お前は率先して行動した。ロックダウンを提示したのもお前だった。お前にふさわしい使命だ」兵士たちには常に誇りを持たせなければならない。
「失望はさせません」彼は答えた。
「期待している」そう答えると、パックの他のメンバーに向かってうなずき、胸を張って役員室を後にした。これからまったく別のタイプの戦いが始まるのだ。